2023年7月2日日曜日

「尼人」 松田修

 


 



私が生まれたのは尼崎市東難波町、幼稚園は難波幼稚園、そして小学校は難波小学校と、尼崎のエリートコースを進み?、その後、神戸の六甲中学、高校と異端の道に進んだ。本来なら、校区である昭和中学(現在は尼崎中央中学)にそのまま進み、多分、高校はアホではなかったので、市立尼崎高校(市尼)くらいは行けたであろう。その後は、近畿大学が甲南大学あたりか。小学校の時の友人は、その後、ほとんど交流はなくなったが、おそらく多くは地元の尼崎周辺にいると思う。

 

尼崎は大きく分けて、阪急沿線、JR沿線、そして阪神沿線に分かれる。阪急沿線には園田、塚口、武庫之荘の3つの駅があり、西宮市に近い、武庫之荘、塚口、園田の順で、ガラが良くお金持ちが多いように思える。JRについては尼崎と立花、(猪名川 知らない)があるが、やや立花の方がJR尼崎よりガラはいい。阪神沿線には多くの駅がある。杭瀬、大物、尼崎、出屋敷、尼崎センタープール前、武庫川、このうちセンタープールはボートレース用の駅だし、武庫川の川に真ん中にある駅である。杭瀬、大物は微妙なところで、雑然としたところではあるが、昔からそれほどヤクザの組はなく、風俗店も少ない。その点、阪神尼崎駅が尼崎の最も代表的なところであり、風俗、パチンコ店、飲み屋、商店街など全て揃ったところであり、ヤクザの組もここに集中していたし、私の近所はラブホテルだらけであった。決して上品な街ではなかった。出屋敷については、尼崎の住民からすれば、三和商店街の奥の方という印象で、三和商店街を真っ直ぐに進み、右に折れると出屋敷という感じであった。かんなみ新地という風俗街があったが、ここは出屋敷というよりは、三和商店街の横丁というところであった。個人的な出屋敷に行くのは子供の頃は、「コンドル」という模型店があり、そこにはよくいった。大人になってからは、出屋敷駅の横にミドリ電気あったので、お袋の家の家電はここで買うことが多かった。

 

こんなことをつらつら書いたのは、松田修著、「尼人」(イーストプレス)を読んだからだ。現代芸術家の松田修は、おそらく本からの推測であるが、竹谷小学校学区で生まれ、小学校前の通りにお母さんのスナックがあったようだ。難波小学校からだと、西に向かい左の折れたところを進むと三和商店街の入り口となる。その入り口を右に進むと、昔はダイエーがあり、その先を左に折れたところが出屋敷に行く道となる。ここから先、阪神出屋敷駅までは小さな商店や、食べ物やスナックが並んでいた。ただ三和商店街に比べるといつも人通りは少ない。著者はここをスラム街と呼んでいるが、むしろ私の近所、東難波町のホープという理髪店から西に折れた区域に比べればそれほどではない。ここは青線地帯で、普通に刺青を入れたおじさんやシミーズだけの女性もそこらにたむろしていた。殺人もあった。小さなアパートも多く、一階に6畳くらいの部屋が6つほどあり、一家5人がここで暮らし、調理はアパート前の小路に七輪で煮炊きしていた。いつもドブのような匂いがしていた。幅2mくらいに小路が至るとことにあり、迷宮化していた。

 

松田修は、尼崎の貧困家庭に育ち、少年院に入ったりしたが、のちに東京芸術大学、大学院を卒業して、主として映像による現代美術作品を発表している。著書にも書いているように、こうしたディープ尼崎に住んでいたときは、全く違和感はなく、それが普通と考えていたに違いない、私もそうだった。ただ大人になって、東京などの上品に街に住むようになると、こうした尼崎の生活をおもしろ、おかしく思うようになり、かなり自虐的に語るようになる。

 

尼崎にはもう一人のグレートな現代美術家、白髪一男がいる。日本を代表する画家で、オークションでもかなり高い評価を得ている。この白髪の実家は、松田の生家からおそらく300mくらいしか離れていない中央商店街の呉服屋である。今の丸亀製麺の斜め前あたりで、松田がここらで遊んでいた頃、白髪はこの呉服店の二階でロープにぶら下がって絵が描いていた。厚塗りの、マグマのような白髪の絵は、アクションペインティングの先駆者としてジャクソン・ボロックと並び表される高い評価を得ている。昭和42年の電話帳で調べると、白髪一男の父、白髪信治郎の店は尼崎市神田中通3-49、自宅は尼崎市宮内3-181でここは出屋敷となり、晩年、白髪自身もここに住んだから、松田の生家とはさらに近い。松田の母親のスナックにも顔を出したかもしれない。


白髪の作品の評価、特に海外での評価が急速に高まったのは、せいぜい2000年以降であり、それまでは変わった画家として、それほど知名度も高くなかった。それでも尼崎を離れることなく、このディープな阪神尼崎、出屋敷に住み、黙々と自分の信じる作品を描き続けた。見事である。松田も自らスラム街の作家、尼人というなら、尼崎を拠点に活動して欲しいし、活躍して第二の白髪になってほしい。頑張れ松田修!











2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

広瀬先生、ねこ吉です。
「尼人」の本の紹介を有難うございます。
早速、図書館に予約しました。

ねこ吉は神田中通5丁目に住んでいましたので、先生の記事を読むととても懐かしいです。
二号線にあったダイエーと出屋敷のダイエーで短大時代アルバイトをしていました。

白髪一雄のことも、先生に教えていただいて生家木市呉服店の後を見に行きました。
プレートが貼ってありました。
ねこ吉の親が戦災で焼け出される前の住所が3丁目でえびす神社の近くだということが古い戸籍謄本から判って、その場へ行ってきました。今はマンションになっていました。

5月2日には、友人と阪急電車 武庫之荘で降りて、市尼に行き、バスで市役所前で降り昭和中学に行き、それから歩いて難波小学校にまで南下して、商店街を通って阪神尼崎から家に帰ってきました。

ランチはグリル一平に行きました。

友人もとても懐かしがって、「また行こう。」と約束して別れました。

「運動会の終わりの歌」を探して、先生のブログにたどり着き、ねこ吉の知らない尼崎をたくさん知ることが出来ました。
有難うございました。

広瀬寿秀 さんのコメント...

こんなところから二人の現代美術家が出るのは不思議なことです。ただスラム街と言われると釈然としません。
運動会というと三和商店街の一番奥、出口付近の靴屋でかけっこ用のタビを買いに行きました。その頃はまだ出屋敷にも多くの人がいました。グリル一平の横には繁益歯科が、前にはスーパーがありました。