2024年9月9日月曜日

健康保険と自費

 



うちの親父が尼崎市で歯科医院を開業したのは、昭和31年で、当時は一部の人には健康保険が導入されていたが、正式に国民皆保険となったのは昭和36年である。私が生まれたのは昭和31年なので、国民皆保険前の状態はあまり記憶にないが、兄や姉に言わせると、患者数はそれほどでなかったようだ。一部の人を除くと基本的には自費主体の治療で、費用もかかるため、なかなか歯科医院に治療に行くのは経済的に大変だった。当時は毎月給料がもらえるサラリーマンの家に憧れていたが、小学校に上がる頃、昭和37年頃、ちょうど国民皆保険となった頃から、目に見えて家の生活が豊かになってきた。患者も多く、朝9時に歯科医院を開ける前に、玄関前に患者が数人が並ぶのが普通で、父親は昼飯、夕食も患者を待たせて急いで食べ、そのまま10時頃まで診察し、そして技工を2時間ほどしてから繁華街に毎晩のように飲みにいっていた。何しろ患者が多かった。パントモ買ってハワイに行こうというキャッチフレーズがあってパントモも購入したが、1ヶ月でハワイに行けるほど儲かった。

 

昭和40年代は歯科医の黄金時代で、経営感覚に優れた歯科医は経営規模を大きくし、医師より歯科医の方が収入の多い時期があった。私が大学を受験した昭和49年頃でも、そういう風潮があり、私も東北大学歯学部に受かる前に、大阪医科大学と松本歯科大学に合格していたが、躊躇なく、松本歯科大学を選んでいた。最新のパスナビの偏差値でいうと、松本歯科大学37.5、大阪医科薬科大学67.5で、両方合格して松本歯科大に行く人は今はいないであろうが、当時は医者になるより歯科医になる方が儲かると思っていた。

 

こうした歯科の黄金時代に発生したのが、保険医総脱退という運動であった。当時は前歯の補綴物は保険がきかなかったので、ポーセレンが全盛で、これだけで暮らしていけた。ある先生のところでは、ポーセレン専門の技工士がいたほどである。そうなると安い保険診療は馬鹿馬鹿しくなり、保険診療はやめて自費の診療だけでやるという歯科医院が多くなった。ただこれも十年ほどで患者からそっぽをむかれ、結局は従来通りの保険中心の診療に戻ったが、それでも患者数は多かった。弘前の先生の中には、自費患者の収入は税金に取られる前に使ってしまえ?と、その日の売り上げを紙袋に押し込んで、飲屋街で毎日使い果たしたという豪傑もいる。それほど儲かった時代である。

 

ところが私が大学を卒業する頃から次第に歯科経営も斜陽となり、歯科医数も飛躍的の増加したことも相まって、1990年頃からは厳しい時代となった。兄も歯科医師で、兵庫県の西宮市で開業していたが、兄や父から歯科医院の凋落傾向を知り、これからは矯正歯科であると考えた。都市部では保険中心の歯科医院は経営的にかなり厳しい状況となり、それは今に至るまで続いている。現在では、まず若者を中心にう蝕自体が減っており、患者数が格段に減少している。もともと日本の保険制度は薄利多売を原則にしており、患者数が減って多売ができないとなると、経営はますます厳しくなる。一方、医科については老人人口が増えて、患者数も増加している。

 

こうした状況下、歯科医院では、経営の主体を自費治療に移行せざるを得なくなり、また保険診療も濃厚診療となっていった。以前なら患者が来たなら、主訴をすぐに治して回転を上げていたが、今では一人の患者から何度も治療するようになった。こうした傾向は地方より都会の方が強く、私のところの患者さんが東京の大学に進学し、近くの歯科医に行くと、銀歯を全て白い歯に変えられたという。別に金属のインレー、クラウンに問題があった訳ではないにも関わらず、白い方が綺麗という理由だけで全ての処置歯の再治療が行われる。こうした例が非常に多い。またまず口腔内環境をよくするという名目で、各種の検査、処置が行われてから、主訴である治療にうつることが多くなった。また自費診療の誘導が凄まじく、東京ではまず保険診療はないという時代になってきている。

 

先日、久しぶりに集団的個別指導にいってきたが、以前ほど、混合診療にはやかましくなくなっている。国にすれば、自費で治療をしてもらった方が、国庫出費が減るため、それほど問題にしないのだろう。自費で治療し、保険点数をも請求する二重請求については厳しいが、保険医療機関が抜歯以外を自費にしても、二重請求、架空請求をしない限りはそれほどお咎めがなさそうである。昔の保険医総辞退の時は、相当マスコミや国民から叩かれたが、今はあまりそうした声もないようなので、薄利多売から厚利少売にするためには、歯科ではこうした流れ、混合診療の形骸化、はますます加速しそうである。


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