2024年10月14日月曜日

子供時代の思い出

 


1.トイレ

学校のトイレで大の方を使うのを人から見られと、皆から汚いと言われたが、誰かにタッチすれば、汚さが移る。こうした遊ぶがよく行われた。ところが「べべんじょ かんじょ かぎしめた」と叫んで、人差し指と薬指をクロスさせると、タッチされても大丈夫となる。

2.給食

昭和30年から40年初めの学校給食は、ある意味、転換期で、小学校一年生の頃はまだ脱脂粉乳があり、あの不味さには閉口した。鼻をつまみ、最初に飲み干した。しばらくするとこれが瓶入り牛乳に、そして三角の紙容器のものになった。パンも最初はコッペパンと銀紙に入ったマーガリン、その後、たまに食パンが出てきて、ジャムもあった。給食は全て食べないと先生から怒られたので、2、3人の子は昼休みも遊べず、泣きながら給食を食べていた。私は食い意地が張っていたのか、毎度おかわりしていた。

3.映画鑑賞

2ヶ月に一回くらい、講堂で映画鑑賞が行われた。電気が消されると、一斉にワーという歓声がこだます。映画「東京オリンピック」はここで見た。怪獣映画も放映して欲しかったが、流石にそれは無理だった。

4.悪ガキ

私も少し多動性障害の傾向があったのか、授業中に隣の友人と悪さをして、よく先生に怒られた。しまいには目付け役として委員長をしていた女子の隣に座らされたり、黒板の横、先生の近くに一時座ったこともあった。昔の漫画でよくある、宿題を忘れるとバケツに水を入れて持たせ立たせるということも普通にあったし、悪さをすれば女の先生でも平気でピンタをしていた。悪ガキは人気があるので、成績はさほどではなかったが、小学四年生の頃に学級委員に選ばれてから、不思議なことに落ち着き、勉強もできるようになった。

5.遊び

学校から帰ると、ランドセルを玄関に置き、親から10円をもらって、近所の友達を誘いに行く。近くに3、4軒の駄菓子屋があったので、この10円で結構遊べた。低学年の頃は、友達と東京ケンパ、サザエさん、初めの一歩など、少し大きくなると銀玉鉄砲や2B弾、コマやビー玉、三角野球などで暗くなるまで遊んでいた。一度、空のセスナ機からばら撒かれたビラを追っかけていくうちに迷子になり、親を騒がせたこともあった。自転車に乗るようになると、行動半径も広くなり、夏は甲子園球場の外野席が無料なのでよくいった(高校野球)。

6.授業中の粗相

授業中のおしっこや大便をしたくなっても、先生に言うのが恥ずかしいのか、授業中に粗相をしてしまう子供が何人かいた。小学二年生くらいまで、机の下がおしっこで濡れて、先生が掃除をして保健室までその生徒を連れて行ったりした。一番記憶しているのは、一年生の時、前の席から臭い匂いがしたので、先生に報告すると、何とその子は大便を漏らしてしまったのだ。真っ赤な顔をしていた。しばらくはみんなからからかわれた。当時は尼崎市でも下水が発達していなかったのか、多くの家はトイレが汲み取り式で、1ヶ月の一回ほどバキュームカーがやってきて、吸引するが、車からガスにようなものが発生するのか本当に臭かった。家の便所に落ちた子もいたし、アパートなどでは外にコックリートの丸い蓋があり、そこから汲み取っていたが、カタカタしていて、そこに落ちた子供がいた。それこそ頭までクソまみれになり、大人がいっぱい集まり、大騒ぎになった。私の家の前には幅1mくらいのドブがあり、よくおしっこの飛ばしっこをしていたが、おしっこをかけられた家は迷惑であったろう。

7.風呂屋の事件

隣に住む同級生のHさんは小学四年生であったが、大柄で、ホリが深く、顔つきもインド人のようであった。同級生なので、もちろん毎日、クラスで顔を合わす。うちには風呂があったが、狭かったので、月に一度くらいは近くの銭湯にいくことがあった。帰りにはフルーツ牛乳を飲むのが楽しみであった。ある日、風呂に浸かっていると、何とこのHさんが入ってくる。一瞬に、ここは男風呂だったよねと思いつつ、周りを見てもみんな男の人ばかりである。どうやら父親に連れられて風呂に来たようだ。こちらの方が恥ずかしくなり、しばらく間、少し大人になりかけた彼女の裸体がチラついた。

8.新しい画法の発見

図画の時間に、友人同士で肖像画を描くことがあった。当時、図画は猪俣太郎画伯が担当していた。小学一年生の時に猪俣先生に絵を習っていたこともあり、猪俣先生に可愛がってもらい部屋にもちょくちょく行った。先生は小学校の先生を片手間にして絵を描いていたと思う。イーゼルにほとんどチューブから出た絵の具を塗りたくる絵を描いていた。知らずにこうした画法に影響を受けたのか、図画で肖像画を描く際、絵の具を水で薄めずに描こうと思った。筆先が長いと書きにくいので、ハサミで筆先を切り、短くして、描いた。水彩絵具を油絵のように描いたわけである。時間がかかったが、猪俣先生からは相当に褒められた。友人が欲しがったのであげた。

 

毎日、毎日、よく遊んだものだ。ところが小学五年生から中学受験の進学塾に通うようになると、一転して勉強づけの毎日になった。小学校時代からオールナイトニッポンを聞いて、勉強していた。「ミキモ クボモ ネムラノ ダマシ ヘンタイ キスキス」の桂三枝さんのラジオCMはもっと後か。


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