久しぶりの宮崎駿の「紅の豚」をみた。5度目くらいだろうか。宮崎作品の中でも最も好きな作品である。おそらく宮崎監督自身、この作品と「風立ちぬ」が最も作りたかったものだったのではと。宮崎駿のミリタリー好きは有名で、飛行機オタクの「スケールアヴィエーション」や「モデルグラフィック」などの雑誌によくインタビュー記事が載っていた。実際、「モデルグラフィック」に連載していた作品をまとめたのが「宮崎駿の雑想ノート」や「飛行艇時代」で、後者はそのまま「紅の豚」の原作となっている。
宮崎駿は1941年(昭和16年)生まれで、終戦時は4歳、戦争のことは全く覚えていないし、いわゆる戦前の軍国主義にも染まっていない世代である。小学校入学するのは昭和22年で、当時は、戦前の軍国主義の反動か、民主主義の極端な教育が行われていた一方、世の中は復員軍人で溢れ、殺伐とした時代であった。ただ親が戦前、軍需産業に関わっていたことから、周囲には軍隊を思い出すものが多かったのだろう。
実は、昭和20年後半くらいから、アメリカの占領政策から解放され、戦争ものが多くなった。例えば、撃墜王の坂井三郎の「坂井三郎空戦記」(のちに大空のサムライ)が出版されたのが昭和28年、今も続く軍事雑誌の丸が創刊されたのが昭和23年、円谷英二が特殊監督をした「太平洋の翼」が昭和28年、とサンフランシスコ平和条約が締結され、日本が独立国家となった昭和27年以降にようやく大手を振って軍事ものを作れるようになった。また今でも航空機の好きな人の愛読書、雑誌「航空ファン」の創刊が昭和27年で、戦争に生き残った日本人は、次々と戦時中のことを語り出した。
ちょうど中学生の感受性の高い時代に、宮崎駿少年も戦記ブームの洗礼を受けた。宮崎監督と私では15歳も年齢が違うが、それでも自分の親も含めて周りに大人は全て戦争経験者であった。そもそも男の子は飛行機や自動車などのメカものは好きで、ソリッドモデルやプラモデルの飛行機や戦車、軍艦が出てきたのもその頃で、夢中になった。「少年」、「マガジン」など次々創刊される月刊誌、週刊誌も戦艦大和や零戦などを取り上げた。戦争については全く実感がないが、それでも絶対にしてはいけないものという思想的な重しがあるものの、とにかく格好いいという感情が先に立つ。プラモデルで零戦を作っては一人で空中戦をする。特に戦争中の武器は、とにかく多種のものが大量に作れたので、今では考えられないようなおかしなものもあり、人を殺すという武器ではあるが、機械として面白いものが多い。
宮崎監督にすれば、映画として「となりのトトロ」のような作品を期待されがちであるが、本当に好きなのはミリタリーで、おそらくは「紅の豚」、が製作側とギリギリの接点で、これが我儘の言える最後だと思っていたのだろう。それでも抑えきれず、もう一度作ったのが「風立ちぬ」で、これでも大分抑えた方なのだろう。それでも戦争は嫌いだが、戦闘機は好きという矛盾した気持ちはダダ漏れである。同様に「この世界の片隅に」の片渕須直監督も無類のミリタリーオタクで、特に日本軍機の塗装についてはその分野では権威に近い。映画でもミリタリーオタクの片鱗は呉港に入る軍艦や飛行機の描写に出ている。片渕監督は昭和35年生まれで、宮崎監督より21年若いが二人とも戦争ものの洗礼を同じように浴びていて、スタジジブリでもこの二人は極め付けで、左翼からも叩かれている。
実はこのブログを書いている私もミリタリーオタクで、何より軍事ものが好きで、これはやめられない。オタクになるとだんだん誰も知らないことに異常に興味が出て、飛行機も有名機にはあまり興味がなくなる。こうしたこともあり、世界の傑作機シリーズも、最近はほぼオタク向けの知られていない機体が取り上げられ、本当のことをいうと傑作機ではなく、駄作機に近い。最近のドイツ機体で言えば、メッサーシュミットME323、Fw189、アラドAr196 などは渋すぎるし、極め付けはF2Yシーダートというジェット水上機には生産数五機の機体を取り上げている。
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