2025年8月6日水曜日

来年度NHK朝ドラ 風、薫る 鈴木雅について 3

 



 
阿部はな


前回のブログで、来年度のNHK朝ドラの主人公、大家直美は、孤児で、教会の牧師に引き取られ、看護師になるという設定だそうだ。共立女学校でもフェリスでも、明治期の生徒の多くはお金持ちのお嬢さんで、この学校に孤児の子供が通学するのはかなり設定に無理がある。今の生徒層に近い、あるいはさらに上流のお嬢さんが通うところであっただろう。もちろん、今の共立学園、フェリス女学園に孤児の子供が通学するというのは絶対ないとは言えないが。ただ共立女学校設立の最初の目的が、当時、横浜に増えていた混血孤児の教育であり、校費生として貧困家庭出身の生徒がいたようだ。一つの例として、須藤かくと一緒に渡米して、アメリカの女子医科大学を卒業して女医となった阿部はながいる。

 

阿部はなについては、はっきりしていないが、父親の名前が、東京都出身の阿部定右衞門であることは、安倍純子さんの研究、「女性宣教医Dr.アダリーン・ケルシ-」に記載されている。キリスト公会の受洗簿に載っていたという。阿部定右衞門について検索すると、明治5年相原村戸籍に、阿部定右衞門 53歳 家族の人数 男2名 女2名 石高315となっている。また「日本近世商業史の研究」でも、阿部定右衞門(53歳)、長男桉吉(15歳)と女の家族が住んでおり、石高0.315石の貧農で、同地域で盛んであった養蚕業に長男が奉公人として出ていたことがわかる。阿部定衛門という名前だけで、この人物が阿部はなの父とするのは無理があるが、それでも阿部はなが渡米する際の外国旅券下付表では神奈川県、他の記録では神奈川県となったり、東京都出身となったりしている。相原村は現在の相模原市と町田市の境、つまり東京都と神奈川県の県境にあり、その所属も最初は相模原、その後に町田になったので、出身地が神奈川であったり、東京であったりするのは、この相原村であれば、嘘ではない。こうしたことから阿部はなの出生として、相原村の貧しい農家の生まれで、何かのきっかけで共立女学校に進学することになったという仮説は立てられよう。

 

当時の共立女学校の学費と寄宿代を合わせて月に5ドルくらいであった。阿部はなついてはアメリカ側に個別の支援者がおり、Phillipsという夫人から1881年には102ドル、1886年には58ドルに寄付があった。102ドルは5年分、52ドルは1年分の学費、寄宿代に相当する。まあまあの額であり、将来的に宣教師になる前提での支援だったのかもしれない。阿部はなは、慶応2年(1866)生まれ、1879年頃の共立女学校に7歳くらいで入学、1886年、20歳ころに卒業した。共立に7歳から20歳頃までいて、卒業後はアデリン・ケルシーの医療助手などをしていた。1891年、25歳で渡米し、アメリカ、シンシナティーのローラ・メモリアル女子医科大学を卒業、1897年に日本に帰国した。

 

須藤かくについては、その家族のことも記録に残っているし、日本での医療活動をやめてアメリカに再渡米する際にも妹の一家(成田家)を呼び寄せて、最終的にはこの家族と共に過ごすが、阿部はなについてはこうした親類の姿は見えない。父親の受洗記録もあるので、おそらくは一家でクリスチャンとなったであろうが、阿部はなとの直接的な関わりはない。1911年、ニューヨーク州、カムデンという小さな町で結核のために48歳の若さでなくなった。

 

ドラマの主人公、大家直美が、明治初期、もし孤児で牧師に引き取られたとすると、そこの養子にならなければ、通常は尋常小学校までの教育となろう。孤児から日本で初めての看護師になり、アメリカに留学希望するというストーリになるためには、貧しい農家からアメリカに留学して女医となった阿部はなのような設定が必要であろう。牧師は任命制で、信者の浄財で生活しているため、預かっている孤児、大家直美を横浜共立女学校のような金のかかる学校に行かせるわけにはいかない。あくまで校費生として学校に受け入れられて初めて高等教育を受けられる。

 

また鈴木雅の夫、鈴木良光少佐については、Wikipediaによると歩兵第9連隊(大津)、第2大隊の大隊長として記載されており、皇居三の丸尚蔵館に写真がある。激戦地の田原坂の戦いに投入され、多くの犠牲者が出た。この写真には、陸軍歩兵少佐従六位勲三等鈴木良光 静岡県士族 三十二歳の説明がある。これも孤児の大家直美が、鈴木良光に嫁ぐには、当時の感覚から家柄で難しいように思える。士官以下の少し階級を下げないと辻褄が合わない。ドラマはフィクションであるが、少なくとも時代背景には合致しないとおかしなことになるので、特に明治以降を舞台にしたドラマは難しい。

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