2008年2月7日木曜日
珍田捨巳 7
珍田と一戸は、義塾の同級生で、その友情は終世変わらなかった。明治38年1月の戦勝記念パーティーで一戸は珍田に次のように語っている。「やあ辰ちゃん(珍田の幼名)。ありがとう。おかげさまで、無駄な血を流さず済んだ。旅順では毎日たまげるほど兵隊が死んで慚愧にたえなかった。陥落しても、またまた決戦の連続で、なんぼいいところでストップかけてくれたことだが」。本音であろう。同時に外務次官と陸軍将軍が戦争について共通の認識をしていたことがわかる。太平洋戦争時の状況とは対照的である。
また大正9年(1920),11月3日の青森県修交会主催の珍田伯歓迎会が開かれたが、その挨拶で一戸は「珍田の辰ちゃんは洟垂れ小僧でした。着物の袖口でいつも拭くもんだから、ボロボロになっていたもんだ。鼻がいつも詰まっていたせいか、鼻にかかった発言が英語にピッタリで、これが今日の珍田伯爵をつくったのであります。以上終わり」と言って敬礼した。それに対して珍田は「兵さんはトイレが長くて義塾では有名でありました。このような個室で兵学を密かに研究されたことが、現在の一戸将軍をつくったのであります」とユーモラスに答えている。この会には当時の著名な青森出身者が参加しており、外崎覚(宮内省勤務、中里町)、菊池良一(九郎長男、衆議院議員)、山田純三郎、鎌田彦一(日大三高理事長)、東海勇蔵(海軍造船少将、弘前)、中村良三(海軍大将、弘前)、今武平(今東光の父)、松井禮七(歯科医、黒石、兄宇野海作は山田純三郎と東亜同文書院で同級)、櫛引弓人など多彩な人物が集まっている。
奉天会戦直後の珍田と山県のけんかの話が残っている。「ロシアはまだ本国に兵力を保有しているが、我が軍はこれが精一杯の兵力である。ロシアはまだ将校が欠乏していないが、我が軍は将校の補充ができないほど消耗している」と珍田が窮状を訴え、講和を切望する内容の要望書を御前会議に示し、それを記録した。ところが元勲である山県は軍の弱音をはくような文章だと激怒し、珍田を呼びつけ、「きみのこの記録は実にひどいものだ。書き直したまえ」と叱咤した。これに対して珍田も腹にすえかね「たとえ元老であっても、御前会議の内容を曲筆せよとは非常識もはなはだしい。とんでもない話だ。」と言いかえし、その足で伊藤博文の家に行き、事の次第を述べた。「わたしの筆記のどこがわるいのでしょうか」と尋ねると、伊藤も憤然として、卓を叩き「彼らはまだ、そんな戯れ言を言っているのか、きみの筆記はすべて正しい。山県の方が無理横暴だ」と言って、珍田の態度を称賛した。のちに山県公も自分の不明を恥じて、珍田をかえって深く信頼するようになったという。
司馬遼太郎も明治と昭和の日本人の違いを「坂の上の雲」はじめ多くの小説でくりかえし嘆いていた。まったく珍田と一戸、あるいは伊藤らとの会話を見ていても、その通りで、日露戦争と太平洋戦争ではこれでも同じ日本人かと思うほど政治家、軍人の資質が違う。よほど明治期の人物の方は常識人でなおかつ度量も深く、ユーモアもある。日露戦争後のわずか30年で、日本人がこれほど変質を遂げるとは、単に士官学校などの教育のシステムの問題だけではなさそうである。
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