2008年2月3日日曜日

新町坂



















天気がよいので、図書館に行った帰りに新町坂(あらまちさか)に寄ってきました。冬の岩木山が眼前に広がっていました。岩木山は四季折々の姿を見せ、春のやさしい姿とはまた違った険しい表情を見せています。お城が海抜50mの丘に建設されたため、弘前は城のある丘陵地帯を上町、低地地帯を下町と呼び、何カ所かの坂によって結ばれていました。この坂はそのうちのひとつで、藩政期の場所から明治期に移したところですが、藩政初期の最も重要な道であったようです。城西地区からS状の坂が続き、結構急な坂になっています。荷物の運搬やねぷたの移動には難儀したでしょう。

この坂を登ったところに、かって小説家の石坂洋次郎の家がありました。生まれたのは代官町の方ですが、学生時代までこの坂に上の地区、塩分町(しおわけちょう)33番地に住んでいました。毎日、ここからの岩木山を眺めていたのでしょう。石坂洋次郎の故郷の原点となる風景だったと思います。

「壁画」という小説の中で、石坂はこの新町坂を次のように描いています。「長い、勾配の急なS坂は、まんなかほどで鋭角のカーブをなしていた。曲がり目の崖際にさいかちの見事な老木が聳えて居り、坂を上り下りする馬車曳達に、遠くからこの難所の目印を与えていた。坂の北側は、下り口からカーブのあたりまで人家が疎らに立ち並び、その先は旧招魂堂の丘に続いて、田圃や大川を越して、下町一帯を眼下に見下ろせすようになっていた。(中略)大川が水田の春、夏、冬、秋、冬、その季節季節に多少の装いを変えるが、要するにS坂の展望は、カラリとした、平和な、愛すべきものであり、この道をまれに通行する人々は、必ず坂の中途で足を停めて、一顧の労を惜しまないのであったが、規模が小さく、すぐに見飽きがすると言うのがその欠点とされ、土地の商工新聞で市内八景の投票を募った際にも、当選圏内に入りながら、結局「変幻の妙趣」に乏しいという理由で、最後の銓衡でふるい落とされてしまった」

弘前城の西の藤田庭園の道を50mくらい行ったところにこの坂はあります。昨年花火大会の観覧のため、夕方から夜にかけてこの坂の上で見学していました。夕日からたそがれ、夜に移行するにつれ、岩木山のシルエットが刻々と変化していく様は、石坂のいうような単調な景色ではないと思います。岩木山の左にお月さんがあり、その光で山頂が照らされる姿はむしろ荘厳な印象を持ちました。

お城からも非常に近く、天気のよい日はぜひ新町坂からの岩木山を堪能してください。弘前の原風景をみることができると思います。

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