2010年5月31日月曜日
早道稽古所および蓬莱橋(明治2年弘前地図)
弘前2年地図を見ているとおもしろいものを発見する。茂森の長勝寺の左側、今の樹木町にあたる付近の解説に「この林を石森早道稽古所と称し、方二町全林の内に沼あるいは岩石多くあり。明治三年まで役位早道の者(小隼人目付という)年々日を期してこの地に於いて三寸草隠し、あるいは岩石隠し等の術を稽古する場なり」と記されている。
早道の者(はやのみちのもの)はいわゆる忍者のことで、4代藩主信政が甲賀の忍びのもの中川小隼人を200石で召し抱えたが、この忍びの集団を「小隼人目付」あるいは「小隼人組」と呼び、20名が定員で、身分は御目見以上の世襲であったようだ。1674年に創設され、一旦廃止されたが、1761年から1870年まで続いたようだ。いまでは全く想像もできないが、情報収集の目的でこれだけ多くの忍びを抱え、訓練していたようだ。
この稽古所の隣には天星場(間違い大星場)という砲術の訓練所もあった。解説には「天星場と称す。嘉永七年(1854)八月落成。工事人夫9854人任用す。砲口より大?までの距離5町50間(630m)横幅60間(110m) (的のところの大きさは)高さ13間(24m)横100間(180m) 」という大規模なものであった。主として大砲の訓練をここで行っていたのであろう。大きな土塁のようなものをこしらえ、そこめがけて大砲をぶっぱなしたのであろう。壊すのも大変だろうから、今でも樹木付近に痕跡は残っているのだろうか(現在のりんご公園内のすり鉢山のこと)。
さらにこの天星場の隣には「明治3年に清野房二郎?(文字不明)英式操練営所連棟?の地」という所がある。文字がかすんで読めないが、おそらく行進や体操のようなものをここで行っていたのであろう。他にもあちこちに鉄砲を打つ練習場があり、幕末から明治にかけ、津軽藩も懸命に軍事的な訓練を行っていた。こうして見ると津軽藩という決して大藩でなくても、藩の独立を守るため、軍事にかなり予算をさいていたのがわかる。ただこういった軍事的施設も明治政府の中央集権化が進むとあっという間に消滅した。またこの操練所の近くに弘前招魂社があるが、これは函館戦争などでなくなった人々を祀ったもので、その後弘前公園内の護国神社に移った。割合早い時期から明治政府の指示に従って作ったのであろう。
もうひとつおもしろいのは、今の土手町の蓬莱橋のたもとの札制の文字が見える。制札、つまり高札のことで、よく時代劇でお上の命令を書いた札を書いたものが繁華街に掲示されるが、あれである。当時から土手町は繁華街で多くの人が集まったところなので、こういった高札を掲示するには一番いいところだったのであろう。また蓬莱橋の左手には線香水車の文字ながみえる。仏壇のお線香や蚊取り線香は、水車で杉の葉を搗いて作る。こんなところにで、線香を作っていたと思うとおもしろい。
地図には載せていないが、茶畑町の近くに御吉兆場というところがある。これも何かわからず、インターネットで調べると鶉(うずら)は、その鳴き声が ”ゴキッチョー(御吉兆)” と聞えることから武将が好んで飼っていたと言われ、津軽の殿様も愛玩用にここでうずらを飼育していたのであろう。
昨日も図書館で明治2年地図の作成の経緯を調べてみた。津軽近世資料4 弘前藩記事(坂本寿夫編、北方新社)をざっと読むと、明治2年という時期は、武士社会が消滅し、武士の家禄などの恩典が一切失われる移行期であり、行政側としてはしばらく生活するまでの扶持米などの支給、帰田法の施行や、また江戸藩邸からの新たな引き揚げ者などの世話のために、武士の現住所の確認が必要であった。そのため支配地の人口、家族数、一門、給料などを正確に把握する必要があった。今と違い、各家には表札はなく、誰がどこに住んでいるかを行政側として知っておく必要があることから、本図の製作がなされたのではあるまいか。江戸切絵図のような一般の庶民、武士のために版元から出版されたのではなく、あくまで行政側の必要性から作られたものであったと推測される。そのため明治中央集権が確立してしまえば、それほど地図の必要性もなくなり、せっかく作ったのであるから、明治7年くらいまでの事柄を記述したものと思われる。江戸期の津軽藩の絵図の中には高位の家臣の住所を記載したものはあるが、これほど詳細に藩士の住所を記載したものはないのは、こういった明治初期の事情によるものだろう。おそらく藩の上位行政官、参事クラスの人物の手元にあったものが流れ着いたのであろう。通常、藩による地図の作成は絵図係のようなものが担当し、正副の2枚を作成したようだが、この地図は行政上のやむえない理由で作成されたため、この一枚と明治4年の写しの2枚のみが作成された可能性が高い。
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3 件のコメント:
はじめまして。私も山田良政、純三郎兄弟で何かできないかと考え、検索したところ、ここに来ました。ブログを見ましたが面白いですね(興味がわいてきます)。天星場については、りんご公園内の山だと思います。ちなみに山田良政、純三郎兄弟の子孫が弘前に在住ではないでしょうか?
山田家には、長男良政、次男晴彦、三男純三郎、四男四郎、長女ひさの兄弟がいます。晴彦、四郎はアメリカに渡ったようで、その子孫については消息はわかりません。純三郎の四男順造さんが父親の資料を持っていて、愛知大学に寄付したようです。長女ひさの子孫が弘前に在住しているかもしれませんが、不明です。天星場についての情報ありがとうございます。
一部間違いのため訂正します。長女はなおで、伊藤要一に嫁ぎ、2男3女をもうけます。長男が佐藤慎一郎氏です。次男清彦は島川千代と結婚し、長男が島川千代雄となります。また三男純三郎は3男2女がいて男は忠、正純、順造となります。次女ひさは馬淵勇五郎に嫁ぎ、2男をもうけます。現在の子孫はこの世代の次に当たります。
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