2011年6月13日月曜日
大久保堰と釜萢堰
昔の農民にとって何より大事なのものは、水であり、それを運ぶ水路であった。なにせ水がなければ、米も野菜も何もできないため、江戸時代、水を巡る争いが各地で起こったほどである。
明治2年弘前絵図を見ると、当時弘前には大きな水路として大久保堰と釜萢(かまやち)堰があった。大久保堰は田町の市営住宅下からおそらくは今の八幡町、青山あたりの田畑に水を運んだのであろう。熊野奥照神社の鳥居のところから西に曲がり、禰宜町、小人町を進み、若党町の向こう側から2手に別れ、一方は南に折れ、西堀に注ぎ、もう一方はそのまま直行すると思いきや、岩木河に沿って西南に進み、平岡町の保食神社あたりで岩木川にそそぐ。
一方、釜萢堰は、土淵川から北横町、植田町、代官町、土手町、品川町を通り、富田の農地を耕したようだ。町の中を縦横に水路が走っている。
現在では、釜萢堰は大きな道になっていたりしてほとんどが埋められてしまっているが、大久保堰は比較的残っているので、昨日、熊野奥照神社から歩いて観察してきた。堰に沿って歩くことができないため、道(橋)からしか見れないので、道を行ったり、来たりして結構疲れた。
多くのところは周囲をコンクリートで固められているが、若党町あたりは一部、石積みのきれいな水路が保存され、雨が降ったせいか、水量もあり、美しい風景である。ことに仲町公園の裏は唯一、水路に沿って歩くことができ、往時の堰の様子がわかる。ここで野菜などを洗ったり、夏は子供が水遊びをしたのであろう。大部分の水路は全く道のない家と家の境界部を走っているため、見ることはできない。若党町のむこう明の星幼稚園の手前あたりに、どうも赤い水門があり、ここからほとんどの水は西堀に続いているというか、西堀から大部分の水がこの水路を流れている。紺屋町から先は水がなく、ただのコンクリートの大きなどぶのようなものとなっている。次第に、痕跡らしいものとなり平岡町の保食神社(淡嶋神社)の手前で切れてしまっている。
こういった水路は、今では地元もひともほとんど知らないものになってきたが、江戸時代は農民にとって欠くことのできないものであり、ほとんどのひとはよく知っていたのであろうが、農地もなくなり、水路自体の価値も次第になくなったため、今のようになったのであろう。それでも未だに一部にしろ、残っているのはありがたい。今後とも周囲をコンクリートにはしないで今の石積みの状態で保存してほしいものである。壊すのは簡単であるが、再現するのは至難の技である。
写真2枚目は仲町公園裏の部分、3枚目は紺屋町の分岐部をお城側から見たもので、拡大すれば奥に水門のようなものが見える。4枚目は和田町辺りでほとんど風情はない。
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6 件のコメント:
たまたま見つけたのでひとこと。
>岩木河に沿って西南に進み、平岡町の保食神社あたりで岩木川にそそぐ。
とありますが水の向きが逆です。
昭和33年の豪雨のあとなくなりましたが、平岡町の保食神社のあたりに岩木川の堰があり、そこから取水していたものです。その水は今の栄町付近で西濠の水と合流していました。
津軽View
全く仰る通りで、失礼しました。逆方向から歩いていきましたので、そうした表現をしたと思いますが、岩木川から取水していたので、水の流れは逆です。岩木川からの大久保堰と西堀の水は、今は明の星幼稚園手前で合流し、仲町方向に東に進んで行きます。また岩木川沿いに北上する水路跡もあります。この堰は、古図にもありますが、これを四ツ堰と読んだか、不明です。というのは元和三年、8名のキリシタンが通称四ツ堰の処刑場で処刑されました。もし場所が確定されたら、日本キリスト教団で碑を建てるようです。
津軽Viewです。早々にコメントの返事をありがとうございます。
>また岩木川沿いに北上する水路跡もあります
中津軽郡藤代村村史に「長次郎堰と川越田」という説明があります。それによると今の栄町は川越田といい、その用水は四ツ堰でなく長次郎堰のようです。
実際に歩いてみると、その堰は城西団地の西端から第二中学校の校庭を経て、大久保堰と並行し、富士見橋前の富士見総業(ガソリンスタンド)の下を走り、栄町に達しています。
長次郎堰は樋の口の流木土場に取り入れ口があったのですが、その辺はイオンタウンや新道などいろいろ開発されて元の位置等は分かりませんでした。
詳しい解説いただき、ありがとうございます。藤代村村史、確認してみます。四ツ堰は、取上処刑場の前の藩の処刑地でしたが、場所がわかっていません。今は位置が南に移っていますが、稲荷神社が川沿にあったことから、供養のためのものと勝手に考えていましたが、もう一度、再考する必要がありそうです。
津軽Viewです。
ブログ用に岩木川の旧堰を調べていて、たまたま先生のブログを拝見しました。
>稲荷神社が川沿にあったことから、供養のためのものと勝手に考えていましたが
そうなんですか。稲荷神社は織座が作られたときに、そこで働く人のために勧請されたと思っていました。
供養のためならお地蔵様だと思います。前にお地蔵様を調べたことがあります。付近のお地蔵様は2箇所あります。
一箇所は、紺屋町富士見橋前の富士見総業(ガソリンスタンド)後ろの斜めの一方通行の道路を少し逆走したところにあります。中津軽郡藤代村村史に「地蔵講」と説明してある場所だと思います。
太い松と石のお地蔵様があります。ここはかつて岩木川の川原に下りる道が松とお地蔵様の間にありました。そして岩木川の対岸(浜の町側)には萢中(やちなか)堰がありました。
萢中堰と四ツ堰を比べるとヤチとヨツと音が似ています。また富士見橋付近の堰はここだけです。
もう一箇所は富士見橋を渡って左岸を150mぐらい右へ下がったところにあります。お地蔵様のほかに供養碑があります。天保の年号があった碑のほか全部で3基あったと思います。この場所は萢中(やちなか)で少し後ろを萢中堰からの用水が流れています。
ただこの場所に昔からあったか確認できていませんので、調査は必要かと思います。
どちらのお地蔵様も藩政時代の飢饉の供養碑の可能性のほうが高いのですが、機会があったらもう少し調べてみます。
古い堰については、時代がたつにつれ、コンクリの排水路のようになっていまい、地図でも名称がわからなくなっています。四ツ堰の名称も、四番目の堰のことか、四つに分かれた堰なのか、その他の意味があるのは、わかりません。ただ弘前市管理橋梁点検結果を見ると、七ツ堰というものがあり、讃岐橋(6.8m)があるようです。場所はわかりませんが、一から七までの堰があったのかもしれません。刑場には地蔵、取上刑場にも地蔵があったようですが、今ははっきりしておらず、さらに古い四ツ堰刑場の地蔵が残っているとは思われず、神社、寺に吸収されたと考えました。富士見橋付近の地蔵、ストリートビューで確認しました。祠に入っているものと、外には小さな地蔵が六つくらいあるようです。一度、調べてみたいと思います。貴重な情報、ありがとうございました。
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