2013年7月14日日曜日

明治十年ころの弘前荒町の古地図



 偶然とはこんなことを言うのであろうか。ブログを通じて知り合った海外にお住まい方より、弘前の妻の実家に古い絵図が最近発見されたとのメールがあり、本日、その方の自宅を訪ねて、絵図を見る機会があった。

 驚いた。絵図は薄い和紙に書かれた160cm×160cmくらいのもので、荒町(現在の新町)、鷹匠町、駒越の、いわゆる下町の南部分を中心に書かれた手書きの地図である。すべて楷書で丁寧に書かれた地図は、明治二年絵図とは違い、士族だけではなく、町民の氏名もすべて記載されている。さらに地所の広さ、幅、奥行き、さらには番地も記載されている。縮尺は明治二年絵図の8倍くらいであるので、1/300程度であろうか。現在の住宅地図よりも細かい。

 時代は後で述べるが、明治10年ころかと推測されるが、明治二年絵図同様に、明治初期の弘前の状況を描いた第一級の一次資料であることは間違いない。ただ裏打ちは薄く、一部反古紙などが使われ、内容に比べて装丁はややおそまつである。さらに畳んで保存されているため、折り目に亀裂が入り、コンデションは十分ではないが、日焼けなどはない。家の新築に際して、旧家の納戸から発見されたとのことで、未発見の資料である。

 明治二年絵図で比較すると、兼松石居の長男、郎のあるところに長尾又右衛門の名がある。長尾介一郎の父、周庸のことである。明治二年絵図では介一郎の名で記載されていたが、介一郎はその後、岩木山麓の開墾に向かい、明治の早い時期にこの場所を去った。実際に長尾又右衛門が亡くなったのは明治19年、正式に家督を介一郎に譲ったのは明治9年である。少なくとも明治19年より前のものであろう。

 馬屋町に一戸徳三郎の名がある。明治31年に南部地獄沢で猛吹雪に遭い亡くなった一戸徳三郎巡査長(当時30歳)のことであろう。明治二年弘前絵図では一戸徳治となっており、徳三郎はその息子であろう。鷹匠町小路の名前もかなり変化している。大豪商の今村九左衛門の名もあるが、明治四年、弘前藩の数万両の金を流用したとして家業、家財、一切を没収されている。一方、明治11年に東京の裁判所で訴訟をおこしている。他の名前を拾っていくと製作年代はもっと特定できると思われるが、明治十年前後のものかと思われる。

 記載は非常に丁寧にされており、個人が趣味のために作ったものとは思えない。おそらく地租改正に伴い、住民の現住所、敷地などを調べる必要から、県あるいは弘前の役所が作ったものと思われる。いわゆる一軒、一軒の番地が入った青森では最も古い地図、いわゆる字限図、あるいは野取絵図と呼ばれるものではないかと推測される。各家ごどに簡単な測量を行い、敷地を調べ、番地をつけていったのであろう。地租改正は明治6年(1873)に布告され、各県に字限図の製作を命じた。明治14年ころに終了したとされたことから、推定したように明治十年ころの製作はこういった流れにも沿う。ただ今回発見された地図は、主として荒町周辺のものであるが、おそらく他の町についても同様な番地の入った詳細な字限図が作られたと思われるが、これ以外の絵図については寡聞ながら知らない。

 こうした手書きの地図は、大型で、何度も広げたり、畳むことで折り目が容易に破損する。そのため、早めに所有者の許可を得て、デジタル化し、今後の研究、調査の資料にしたいと考えている。

 これまで明治初期の絵図としては明治二年、三年、四年のものがあったが、さらにこの明治十年ころの絵図の発見により、町および士族の変遷についてより詳細な比較ができると思われる。研究者の今後の調査に期待したい。

3 件のコメント:

Unknown さんのコメント...

今村の子孫です。近代の我が家の先人たちはあまり先祖の深めがなく、しることができずにおりました。広瀬様のブログを発見し大変興味深くありがたく拝見させていただきました。ありがとうございます。

広瀬寿秀 さんのコメント...

この地図はデジタル化していて、コンピュター上で自由に移動、拡大して見れるようにしています。B0サイズくらいで10部ほど印刷していましたが、数がなくなりお渡しできません。希望がありましたら病院までお電話いただき、CDにコピーしたデーターをお渡しします。そのデーターを印刷屋に頼めば紙に印刷してもらえます。売買目的でなければ、自由に印刷してもらって構いません。確かB0サイズ(1030×1458)で5000円くらいです。実物より少し小さくなりますが、迫力ある絵図ですので、ご親類にくばったらどうでしょうか。

Unknown さんのコメント...

ありがとうございます。是非いただきたいです。青森市に住んでおりますので、弘前へ行く際は是非。