2013年12月27日金曜日

明治初期の地籍図4


 昨日は、久しぶりに弘前市立図書館に行ってきました。明治期の下町(新町、馬屋町、鷹匠町など)の小学校と壬申地券について調べるためです。

 明治になると、日本は教育熱心というか、早い時期に小学校が多く建てられます。弘前でも、一番小学(朝陽小学)、二番小学(和徳小学)、三番小学(時敏小学)など明治6、7年に次々と建てられ、下町においても士族を教師とする私塾ができます。

 明治7年4月には篤数小学(新町、生徒数:92名、成田太源(多作))、5月に思斉小学(馬屋町、生徒数44名、工藤他山)、童習小(平岡町、生徒数27名、石郷岡平次郎)、明治9年7月には駒越小などができます。思斉小学は慶応3年にできた漢学塾の思斉塾が、篤数堂は弘化2年にできた篤数堂が小学になったものです。他には新町の山上良蔵、鷹匠町の小野東太郎、杉山田文六、石郷岡勇左衛門の私塾がありました。

 そして明治9年2日には、下町の有志によって工藤他山の経営する馬屋町の思斉小学を買い取り、そこを献納小学とします(石郷岡平四郎、今泉萬右衛門らが買い上げ)。ただ下町の子供にとっては通学距離があるため、すぐに場所を移し、今のサムエル保育園のある鷹匠町に博習小学を作ります。明治10年1月28日のことです。篤数小学、思斉小学、童習小学を併せたものです。この博習小学も最終的には袋町の自彊小学と一緒になり、今の城西小学校になります。

 ここで地籍図に戻ります。私塾である場合は、これは商売ですので、他の商売の屋号がないのと同じく、私塾名は記載されていません。馬屋町の思斉堂も工藤他山となっています。ただ少なくとも、献納小学は土地の有力者によって作られたものであり、もし絵図が作られたのが明治9年2月以降であれば、記載されているはずです。当然、博習小学も同様です。

 地券に関しては、江戸時代は田畑については検地を行い、収穫量に基づいて年貢を決め、農民から徴収していたが、町人、士族からの直接的な課税はなかったようです。明治政府は、農民からのみ一方的に徴収する納税制度をすべての人民から徴収する近代的な課税制度にすることにします。まず江戸の市街地への課税として、明治4年11月に太政官布告、5年1月に大蔵省の東京に対する通達で、地価の100分の1の地価を徴収することになりました。以後、各地に広まっていき、青森県でも地価の1002.5となりましたが、東京とは違い、弘前では「従前地子金上納之地」があったようです。幕末時、地子金が酒造業、質屋などに課せられた事業税(家業税)にあたるものか、あるいは事業とは直接関係ない地租であるか、もう少し調べたいと思います。いずれにしても市街地の課税方法が各地で違うため、明治6年7月に地租改正法公布により全国的に地価の100分の3に統一されました。土地の測量は、住民にゆだね、官吏が測量の際に臨検し、測量技術を伝えたようです(主として十字法測量)。実際の地租改正作業は明治7年11月から着手されました。

 弘前の地籍図は、壬申地券に伴う一字限図とは内容、様式が異なり、それ以前のものではないかとの指摘が租税資料室からありましたが、明治7年11月以降であれば、あえて通達を無視したものを作ることはありません。むしろその前の明治6年前後に東京の例に倣い、フライング気味に地籍図の作成に着手したのかもしれません。それだけ財務上、逼迫していたのでしょう。また帰田法という弘前藩独特の藩士に郊外の土地を与える制度がありましたが、その失敗と何らかの関係があるのかもしれません。一応、明治6年前後の製作と推測しましたが、決定的な資料がまだ見つかりません。

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