2013年12月10日火曜日

明治初期の弘前地籍図2


 2) 馬屋町
  馬屋町は、名前の通り、弘前藩の馬場のあるところで、その周りには馬扱詰め所などの役所や、藩の馬指南役などの家が並ぶ士族町であった。絵図での戸数は35軒で、間口の平均は29.6mSD19.3)、奥行は40.9mSD15.7)、面積は1231mSD247)となり、これは162尺、223尺、373坪にあたる。かなり大きな屋敷が並ぶ。一番宅地面積の大きいのは、今村久左衛門宅で813坪、次に貴田稲城宅653坪と続く。今村久左衛門宅は、明治二年弘前絵図では大津屋久左衛門馬屋飼料取扱所となっており、住まいというよりは、厩や馬の飼料があったところである。屋敷面積が210坪を超える家が25軒で全体の71%で、大きな屋敷が集中している。


3)鷹匠町
  鷹匠町は下級士族の住む士族町で、絵図では73軒の家がある。間口の平均は19.4m(SD 7.2)、奥行は37.1m(SD 10.1)、面積は692mSD 247)であった。これはそれぞれ103尺、202尺、210坪にあたる。一番宅地面積の大きいのは、山田伝一宅で631坪、次は山形喜代吉宅で373坪であった。
210坪を超える家は29軒で、全体の40%で、馬屋町よりは比率が少ない。


4)西大工町
  西大工町は戸数74軒で、間口の平均は11.0mSD4.8)、奥行は37.6mSD6.3)、面積は396mSD145)であった。これはそれぞれ6間、204尺、120坪となる。一番宅地面積の大きいのは、嘉瀬福太郎宅で198坪、次に大きいのは三浦盛之進宅で172坪であった。70から110坪前後の宅地が39軒と多く、全体の53%を占める。
番地は76番まであるが、1から5番まではなく、また7番もない。明治二年弘前絵図より6番から16番までは士族宅で、10軒の家が数えられる。


5)駒越町
 駒越町は戸数85軒で、間口は9.9mSD6.1)、奥行は36.5mSD2.6)、面積は372mSD224)であった。これはそれぞれ53尺、20間、113坪となる。一番宅地面積の大きいのは、野村幸助宅で513坪、次に大きいのは小友久左衛門宅で249坪であった。90から110坪の家が多く、34軒、40%であった。

     6)平岡町
平岡町の戸数は66軒で、間口は10.7mSD5.7)、奥行は32.1mSD8.7)、面積は339m2SD188)であった。これはそれぞれ55尺、174尺、103坪となる。110坪以下の家が大部分を占め、50坪未満の小さな家も6軒あった

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