患者さんから、「うちに江戸時代の古い土地台帳がある」と言われたので、「是非見せて下さい」と頼んだところ、後日、拝見させてもらった。古文書についてほとんど知識はないものの、江戸時代の茂森、茂森新町、塩分町、覚仙町の住民台帳のようなものである。敷地の大きさ(幅、奥行き)、家主、その職業などが記載されている。士族については下級士族(軽輩)が若干、記載されているが、多くは町人、農民の台帳となっている。
中味については崩し字が読めない私には、理解できないので、以前メールでお世話になった先生にお尋ねしたところ、近代史(江戸)専門の同僚に聞いていただき、お忙しい最中、丁寧なお返事をいただいた。私のような素人が調べようと思うと、1年かかりかかるようなことでも、こういった専門家に聞けばたちどころにわかるため、非常に助かった。
まず読みについて写真に示す例を挙げると(右から三番目)
「専四郎屋敷中役四歩三毛出人足弐拾七人壱毛
荒物 子助
西表口四間弐尺
東裏口四間貳尺
北裏行弐拾三間七尺
南裏行弐拾三間七尺」
これは専四郎という土地所有者がいて、その地所に 日雇いの治之郎、荒物の子ノ助、荒物の喜左衛門の三人が住む家があった。各町ごとに上役、中上役、中役、下役、下々役の役付けがあり、茂森町は中役のランクで、ランクに応じた人足役の負担があった。また四歩三毛とはこの地所面積あるいは間口で決まった銀相当金の43%を負担することを意味し、さらに出人足とは都市整備にかかわる使役負担に相当し、この場合は人足27人分と一毛の銀の負担となる。
江戸時代の弘前藩の主として町人からの税金については、理解が浅く、もう少し勉強しなくてはいけないが、町名主、町年寄、町奉行などがこういった台帳を作り、それに基づいて、税金を納めたり、使役を分担したりする。藩自体が直接関わるのではなく、町内の代表者に業務を委託する仕組みである。町名主は、町内での道や橋の補修などの責任もあるため、それらの費用はこれから出したのであろう。店子として大家から家を借りている場合は、こうした税金もその家賃に含めた。
場所については、根帳からはわからないが、2つほどヒントある。ひとつは玉田酒造で、茂森町の「東側北か南に」のところに「造酒 善兵衛」がある。玉田酒造の当主は代々善兵衛を名乗っており、今の玉田酒造のことである。地所が広く5人分が善兵衛の名となっている。最初は東表口16間、次は15間5尺、4間2尺、4間1尺、8間1尺、8間4尺となっている。合わせると57間1尺(103m)となる。広大な敷地である。現在、玉田酒造は茂森町西側通りにあることから、東向き、北から南に並んでいると解釈できる。さらに茂森座(広居座)を見ると、茂森町三国万吉組のところに「東側北から南に」とあり、「西表口16間4尺1寸 芝居 兵七」となっている。当時の座長を広居兵七と言ったのかしれない。間口が28m程度の大きな芝居小屋であったようだ。このように家の向きからある程度、他の絵図を参考にして場所は特定できる。
時代は、ほぼ同様な文献として「土手町居下軒数根帳」という文政10年(1827)のものがあり、また覚仙町には御用絵師の今村養淳(文政六年、1823)と最初書かれた後に付箋にて茂三郎と書き直されているので、ほぼ文政年間のものと思われる。また他の箇所には内容は読めないが、文政二巳卯年六月の記載がある。また他の付箋をみると明治四年九月までの居住者の移動が付箋で修正されているので、文政二年(1819 年)から明治四年年(1870)までのほぼ50年間の茂森地区の住民の移動がこの文書にてわかる。
所有者から1か月ほどお借りすることができたので、すべてのページを写真撮影した。デジタルデーターとそれをコピーしたものについては、所有者の許可をいただければ、図書館に寄贈しようと考えている。
こういった土地台帳に相当するものは、町名主にとっては、重要なものであり、火事の場合でもまっ先に持っていったものと思われる。そのため、江戸時代は厳重に保管されていたと想像されるが、明治以降は税業務がすべて政府に移管したことから、内容がわからぬまま、散逸していったと思われる。ただこういった形で、また貴重な一次資料が見つかったことは研究者にとっては大変ありがたいことであり、まだまだ市内のどこかに残っている可能性がある。
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