明治二年弘前絵図 紺屋町付近 |
前回のブログで、1800年ころの弘前の古絵図で、四ツ堰の場所がだいたい特定された。弘前城築城当時、岩木川は樋ノ口あたりから、駒越川と樋ノ口川に分かれていたが、頻繁に川が氾濫し、大きな被害を与えた。そのため、駒越川の底を深く掘ったが、一向に氾濫はなくならず、天和二年に樋ノ口川をせき止める大掛かりな工事が行われた。その結果、樋ノ口川がなくなり、今は西堀となっている。
昔の樋ノ口川がどこを通っていたかははっきりしないが、西堀から紺屋町の東を抜けて、現在の富士見橋の北側、栄町付近で合流した。樋ノ口川の留め切り後は、西堀と大久保堰、さらに北上するルートが通称、四ツ堰となった。
松野武雄さんの説では「すでに判明した処刑者のみで百十一人を数えているが、ほとんどが火刑である。処刑の場所は、弘前市内西方岩木川岸紺屋町の田圃、通称四ツ堰であることは、大体間違いのないところである。しかもここは終戦後、偶然にも基督教の修道院が建設されたことは、まことに不思議なめぐり合わせである」(津軽の切支丹、切支丹風土記 東日本編、宝文館、昭和35年)となっているが、その論拠についての記述はない。もし四ツ堰付近とすれば、樋ノ口川と駒越川が合流する紺屋町、北の三角地帯が有力と考えられる。紺屋町は早くから町割りされ、町の北には繊維工場ともいえる織座があり、さらにその奥には織座稲荷があった。この織座稲荷は現在、さらに南側に移動しているが、江戸初期には紺屋町の北方、川近くにあった。町がかなり川沿いまで広がっていたことになる。それ故、紺屋町である程度の空き地があるのは、駒越川と樋ノ口側のまさしく合流する三角部分しかない。氾濫が多く、田畑にはあまり向かない場所で、荒れ地だったと思われる。
刑場には、処刑者の霊魂を供養する地蔵があることが多く、取上刑場においても、近くの貴船神社があり、供養塔、地蔵などが祭られた可能性がある。400年前の地蔵、供養塔がいまだにそこにあるとは考えにくいが、どこかにその痕跡はあるだろう。その痕跡を探そう。まず松野説によれば、近くにあった織座稲荷があやしい。本日、散歩のついでに南に移動した織座稲荷を調べたが、そうした慰霊塔、地蔵の痕跡は一切ない。『大久保堰、釜萢堰』のブログでコメントいただいた匿名さんの情報で、富士見橋付近に地蔵があるので、これも本日見てきたが、数体の地蔵が並べられていたが、400年前のものとは思われず、もっと新しいもののようだし、場所が少し違う。向外瀬の諏訪神社まで行くと、少し距離が遠すぎ、今のところはっきりした痕跡は一切ない。一方、四ツ堰を処刑場と考えた場合、刑場としてはあまりに弘前城から近すぎる(まあこれが取上に移転した理由かもしれないが)。さらに松野さんは、処刑場を四ツ堰近くの田圃としているが、田んぼの中に処刑場というのは考えにくく、京都、六条河原刑場(鴨川)、仙台、米ヶ袋刑場(広瀬川)の例を出すまでもなく、岩木川の河原に作った方が理解しやすい。江戸初期、駒越川と樋ノ口川の合流地点の河原で処刑場を設け、樋ノ口川の留め切り後に、河原がなくなり、取上に移ったのだろう。
松野さんの指摘したように、切支丹の殉教の地近くに明の星幼稚園があるのは、碑や慰霊塔より信徒にとっては何よりうれしいことであろうし、霊も慰められよう。明の星学院の母体は、聖母被昇天修道会であり、大きなくくりとしては、津軽の切支丹が入信していたイエズス会とは同じカトリックで同種であり、ここが殉教地であることがはっきりすれば、カトリックの巡礼地としても価値があろう。
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