北白川祥子(ウイキペディアより)
昭和天皇実録 第四を購入。“珍田”をキーワードにざっと見てみたが、相変わらず、件数が多い。第四巻では摂政就任、結婚、大正天皇崩御、昭和改元などが扱われ、東宮大夫、侍従長であった珍田もなかなか休めない。大正天皇が病気がちのために、昭和天皇(この名称を用いる)も大正天皇の名代、摂政としての仕事と、皇太子としての仕事があり、両方をこなす必要があるし、さらには大正というある意味人心が乱れた時期であったため、各地に巡幸をする必要があった。北海道、台湾への巡幸は遠方であったので長期の巡幸で、東宮大夫の珍田も随行しなくてはいけないし、結婚、大正天皇の崩御についても、皇室のさまざまな儀式に出席を求められる。さらには外国人賓客が参内した折には、晩餐会が開かれるが、その度に珍田は通訳を兼ねて陪席するし、月に2、3回、優れた講師を招き、時局から古典、歴史までの幅広い講義が行われるが、その都度、昭和天皇と陪席して講義を聞いている。
昭和元年の12月25日に大正天皇が崩御し、同日に昭和に改元したが、珍田もすぐに皇太子を補佐する東宮大夫から、皇后を補佐する皇后宮大夫に変更されるが、昭和2年2月20日の記事には“皇后宮大夫珍田捨巳病気引き籠り中につき、天皇・皇后より御見舞として果物一籠を下賜される”とある。ところが3月3日には、大正天皇の侍従長徳川達孝伯爵が免官、珍田捨巳が侍従長となる。仕事は東宮大夫とは同じであるが、普通の人が侍従長を珍しい。明治17年から大正元年まで長く侍従長をしていた徳大寺実則は、公家の出身、さらに鷹司煕通は公家で徳大寺の娘婿、次の正親町実正も公家、そして徳川達孝となる。皇室行事は公家以外にはなかなかわかりにくい制度であり、精通している公家が侍従長となったのだろう。ただ昭和天皇にとっては、渡欧巡幸の供奉長、摂政時代の東宮大夫であった珍田は最も頼りになる存在で、さらに欧州での生活を知った昭和天皇にすれば古い公家のしきたりを復活させようとは思わず、そうした点からも珍田が侍従長になってもらうのが一番よかった。
おそらく珍田すれば、高齢で病気がちであったため、辞退したいのが本音であったが、周囲から強く勧められ、侍従長を承諾した。「ポトマックの桜 —津軽の外交官珍田捨巳夫妻物語」(外崎克久著、サイマル出版、1994)には、珍田の妻の思い出として、固辞する珍田のもとに義理の兄、佐藤愛麿が訪れ、「最近の軍首脳の動きは、じつに不可解なものがある。西園寺公も牧野内相も心配している。世界が平和軍縮に向かっているのに、軍艦は増強するわ。戦車、飛行機は増強するわで、兵隊は減っても、日本の軍備費は増える一方だ。世の中は、ますます不景気だというのに、中国とまた戦争する気でいるようだ。まじめに日本の将来を考えているのだろうかと」、「じつはそこだ。将来、偏狭で冒険的な軍国主義者を抑える人は、立憲君主の陛下でしかおられないと思っている。陸海軍を統帥する大元帥となられたいま、広い見識を持って軍を統監し、日本が世界から仲間外れにならないように指導するのが陛下である。その陛下のバランス感覚を正しく補佐して差上げられるには、珍田、お前しか居らんのだ.頼む、体を張ってでも引き受けたほしい」と説得し、「佐藤、わかった。ご仁愛篤き陛下のおそばに、できるだけ長くいて、お仕えするのが臣下の勤めだと思う。いまこそ、栄えある殉教精神が求められているのかもしれない」と答えたという。実際には宮内大臣、一木喜徳郎や内大臣、牧野伸顕から、懇願され、引き受けたようだ。
侍従長に就任後も、月に数回の晩餐、講演の陪席などは変わらなかったが、寒い樺太行啓や愛知での陸軍大演習は珍田の体をいたわり供奉されなかったが、一方、海の好きな珍田を喜ばせようと海軍大演習には供奉した。天皇の老臣への思いやりを感じる。
またこのブログでも以前紹介した弘前藩最後の藩主、津軽承昭の長女、津軽理喜子は、皇室の女官として勤め、大正14年7月1日に、皇太子妃内着帯の儀、昭和2年10月23日に朝子女王誕生に際して天皇・皇后より御使として五種交魚一折、白羽二重一匹を贈呈との記載が「昭和天皇実録」にある。さらに津軽理喜子の妹の寛子は、徳川義恕に嫁いだが、長男の徳川義寛は後に侍従長、次男の津軽義孝の娘は常陸妃華子さんで、長女の祥子は北白川家に嫁ぎ、女官長、皇太后宮女官長などをした。弘前と皇室との関係は深い。
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