明治九年七月の明治天皇の東北巡幸では、東奥義塾の学生十名が七月十五日に青森に招かれ、その学業を天皇が視察されることになった。菊池九郎、本多庸一、外国人教師ジョン・イングに引率された学生達は、青森市の蓮心寺で英語唱歌、英語講演、英語作文の三科目を明治天皇の前で行った。唱歌はイングが聖歌五十番を天皇頌徳に翻意したもので、全員でこれを合唱した。時間の関係から講演は珍田捨巳、伊東重、森可次の三人、他の七人は英文を綴って奉納した。
明治天皇はいたく感激し、生徒一人一人に英語辞典代として五圓を下賜し、イングは特に拝謁の光栄を得た。この時の学生と演題は次のようなものだった。
珍田捨巳 「英語演説ハンニバル士卒を励ます辞」
伊東重 「シセロカテソンを語る 題、教育」
森可次 「合衆国に上陸しての演説、題、開化進歩」
佐藤愛麿 文章朗読 題「愛」
川村敬三 文章朗読
藤林良司 文章朗読 題「剛気」
工藤儀助 文章朗読 題「文明」
乳井吉之助 文章朗読 題「明治皇帝の北巡を祝す」
田中五郎 文章朗読 題「外国交際の要」
武田邦雄 文章朗読 題「自給」
同行した内閣顧問木戸孝允は、こうした僻地で外国人教師を雇い、しっかりした英語教育をおこなっているのに感動し、東京に帰ってからも話題にしたので、一躍、東奥義塾の名が上がった。(以上 「東奥義塾再興十年史」昭和六年)
これについて「洋学受容の地方の近代 —津軽東奥義塾を中心にー」(北原かな子)では岸田吟香の「東北巡幸記」(東京日々新聞、明治9年)から引用し、
「演説 ハンニバル士卒ヲ励スノ辞」
「文題 青森へ御着輩ヲ祝スル文」頌歌 珍田捨己
「演説 アンドロ、ジャクソン氏合衆国上院ニテノ演説」
「文題 開化進歩」頌歌 森可次
「演説 シセロカテリンヲ詰ル辞」
「文題 教育」頌歌 伊藤舜山
「文題 一種奇怪の引力」頌歌 川村敬三
「文題朗読」「文題 愛」頌歌 佐藤次郎
「文題 外国交際ノ要用」頌歌 田中五郎
「文題 剛気」頌歌 成田亘司
「文題 明治皇帝ノ北巡ヲ祝スル文」頌歌 佐田吉之丞
「文章朗読」「文題 時」頌歌 工藤儀助
「文章朗読」「文題 自給」頌歌 武田邦雄
名誉ある天覧授業の発表者が本によって異なるが、伊藤舜山は伊東重(舜山)の間違い、佐藤次郎は佐藤愛麿の幼名である。「シセロカテソンを語る」より「シセルカテリンヲ詰(なじ)ル辞」が正しいと思われる。これはローマの哲学者、マルクス・トゥッリウス・キケロ(Cicero)が元老院でルキウス・セルギウス・カティリナー(Catilina)の国家転覆未遂事件を追求した演説であり、後者が正しい。また「合衆国に上陸しての演説」よりは「アンドレ、ジャクソン氏合衆国上院ニテノ演説」の方が意味をなす。これは第七代アメリカ合衆国大統領のアンドリュー・ジャクソン(Andrew Jackson)の演説であろう。また珍田捨巳と珍田捨己は同じ、本人は最初、己であったが、ステッキ(杖)に間違えられるため“巳”にしたが、天覧当時は“己”でよかった。また成田亘司は、成田良司の書き間違いで、藤林竜岬(良司)のことである。成田基三の子で、藤林昌知のところに養子にいき、藤林姓となった。東奥義塾卒業後、明治12年9月の東京師範学校に入学したが、卒業間近の明治16年に肺疾患で亡くなった。将来期待されていただけに残念な早世であった。義塾の英語の教師には明治5年から10年までは佐田吉之丞という人物が、明治11年以降は乳井吉之丞という人物がいて、これも佐田家から乳井家に養子にいったため、名が変わったのだろうか。後に“魁新聞”などの編集長などをした。戊辰戦争で弘前藩の銃隊頭を勤めた相良町の佐田大之丞、その息子で自由民権運動のリーダーで県会議員、弘前市助役を勤めた佐田正之丞(1854-1922)の弟のように思える。
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