どこの学校でもそうですが、創立者の思想が校風に繋がることが多いと思います。とくに私立学校の場合は、その傾向は強いように思えます。
六甲学院の創立者で、初代校長の武宮隼人については、その履歴については、ほとんどわかっていません。武宮先生は、六甲中学が設立された1937年で35歳だったことから1902年生まれなのでしょう。「六甲学院 五十年のあゆみ」(昭和62年、六甲学院)を見てみますと、「阪上 僕は思うのには武宮先生は勿論イエズス会員であり、熱心なキリスト教徒であるんですけれども、同時にやっぱり、お父さんは鳥取藩の鉄砲組頭という侍ですね。だから、お父さんの武士としての厳しい教育が相当染み込んでおったと思うんです」(P154)とあります。ここにヒントがあります。”鳥取藩 武宮“で検索すると武宮貞幹という人物がでます。
鳥取藩には武宮貞幹(さだもと)???~??? 幕末—明治時代の砲術家。因幡鳥取藩の砲術師範役をつとめ、安政2年(1855)より常陸水戸藩で神発流の砲術をまなぶ。戊辰戦争のさいには大砲隊をひきいて大阪から海路江戸にわたろうとしたが、暴風のため戦闘に参加できなかった。因幡出身。通称は丹治。
さらに”武宮丹治“で検索すると
鳥取藩の砲兵奉行。史料では砲術家、砲術師との記述が目立つ。1855年(安政5年)お台場築立御用掛に任命されると和田勝蔵、加須屋右馬之丞とともに水戸藩士、福地政次郎により神発流砲術を学んだとされる。鳥取藩主、池田慶徳の命により境台場、由良台場などの鳥取藩台場の築城に携わった。境台場の建造においては1863年(文久3年)から富山敬蔵の設計の元、会見郡大庄屋、山根作兵衛らとともに築城を開始し、1868年(明治元年)11月に完成した。
武宮貞幹が、1902年生まれの武宮校長の父とするのは、時代的には合わず、阪上先生の記憶間違いのように思えます。父でなく祖父でしょう。
“鳥取藩 武宮“で検索すると、明治大学阿部裕樹の、「鳥取藩の海防政策と山口虎夫—鳥取藩の西洋流砲術受容をめぐって」(大学史資料センター報告 第36集 大学史活動、2015)があります。この論文では、大筒役の武宮家は鳥取藩の砲術家業家の中では格式最高位であったようです。また武宮家は豊後大友氏の支流であるとして、次のような文を載せていますので、引用します。
大筒役と武宮氏
大筒役の長たる武宮家は、其家譜によれば其先武宮親実、豊後大友氏の支流にして、大友義鎮に従い、砲術を以て用いられ、所々に戦い武功多し。親実の三子久兵衛、大友氏滅亡後輝政公に仕え、慶長十八年、忠継公に属し、大阪陣中又砲術を以て功有り。之を武宮氏初代となす。
さらに武宮貞幹(丹治)の父は武宮雅楽允で、近代砲術を学ばせるために後継者の貞幹を水戸に留学させたようですので、武宮貞幹が15から20歳に留学したとすれば、生まれは1835年から1840年ころと想像できます。 “大友氏 武宮”で検索すると、鎌倉時代から続く、守護大名大友氏の家臣団に武宮の名があり、さらに平安時代、古代に連なる豊後大神氏の末裔となります。わけがわからないくらい古い家の一族のようです。
それがどうしてカトリック神父となったかは、もう少し調べていこうと思いますが、札幌光星高校、中学校の創立者に、武宮雷吾(1898-1983)という人物がいます。フランチェスコ会の神父ですが、上智大学を出てドイツ留学をしたという経歴は武宮隼人校長とも重なりますが、兄弟かどうかは不明です。また「広島教区世界平和記念聖堂50周年企画 ルーメル神父 2003年12月13日講演」(http://www.hiroshima-diocese.net/hp/kw/50/soumu01.htm)の中で「ラサール神父さんが日本に来たのは昭和4年1929年。どこでいつどのように日本語を覚えたのかはさっぱりわかりません。北ドイツ管区はオランダのファルケンブルグというところに神学校がありました。かれも当然そこで神学を学んでいましたが、彼が大正時代の終わりごろ神学校で学んでいた頃、日本からイエズス会士の若いものが勉強していました。その一人は六甲学院の創立者の武宮神父さんでした。」という文があります。文中のラサール神父とはフーゴ・ラッサールのことで、またファルケンブルグの神学校とはオランダの聖イグナチオ大学のことです。ラッサールは座禅をキリスト教に取り入れた人物で、六甲学院名物のの瞑目も彼の影響があるのかもしれません。
インターネットだけでどれだけ調べられるかわかりませんが、もう少し調べます。
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