2016年6月7日火曜日

六甲学院 武宮隼人2

池田勇人とラッサール神父

 前回、武宮校長は、古代から続く名家の出で、鳥取藩では代々、砲術家業家として活躍したことがわかります。幕末には、武宮貞幹(丹治)の名がありますが、その後の系譜がわかりません。鳥取県立博物館のデジタルデータ、鳥取県藩政資料(家老日記)には武宮丹治の名が頻繁にでますが、慶応二年124日(1866)のところに武宮権之丞(親)が眼病のため、奉公に支障をきたすようになったので、息子の甚之進(丹治、貞幹のこと)に任せてほしいという要望がでています。その後の仕事を見ても少なくとも慶応二年で20歳以上だったようです。

 「六甲学院 五十年のあゆみ」(昭和62年、六甲学院では、「当時は女子校でも教練が行われていた。この大佐はついで小林聖女子学院の査閲に行く予定であった。ただ聖心の教練は予備陸軍少尉の肩書きをもつ武宮校長が担当していたのである。武宮少尉の報告を聞いた大佐は自分は聖心の査閲に赴かず、その報告のみで満足して引き上げたのであった。」(p59

 この文からは武宮先生は、陸軍の予備少尉であったことが伺われます。そこで、これは私もよくお世話になる国立国会図書館デジタルコレクションで調べてみます。戦前の予備、後備士官の名は、「陸軍後備役将校同担当官服役停年名簿」というのがあります。大正12年から昭和9年までのものが公開されています。
といっても各册1000ページ近い分量で、そこから「武宮隼人」の名を探すのは大変です。歩兵少尉の欄を一つずつ、調べていきますと、ようやく「武宮隼人」の名がありました。

 大正15年(790p)のものには、「大正14,3,31 少尉志 同11,12,1予備役」、「第一(麻布)正八」となっている。また昭和九年のもの(468p)をみると、「大正14,3,31 少尉志 同11,12,1 4,4,1後」、「麻布第一」となっています。

 大正期の日本陸軍は日露戦争が終わり、軍縮の方向に向かっていきます。そのため一年志願兵という制度がドイツの制度を参考に明治22年(1889)にできます。官立学校、師範学校、旧制中学校などを卒業したものに対して、装備、武器、弾薬などは部隊から支給されるものの、それ以外の食糧、被服、装具などは自己負担とし、1年の入隊を許可される制度です。最初の6か月で上等兵に進級し、下士官と同様に勤務し、満期の暁に学科と実地の試験を受けて予備役の二等軍曹となり、除隊します。武宮先生の場合では、大正1112日に予備役となりました。予備役編入の翌年に最低3か月の予備役見習士官として勤務演習した後、最後に試験が行われ、それに合格すると予備少尉となります。武宮先生の場合は、大正14年の3月31日に予備少尉になったことになります。さらに予備役は5年間と決まっていましたので、昭和441日には後備役となります。後備役は6年間です。昭和15年に予備役と後備役が一緒になり期間も陸軍で154か月となりますが、昭和17年に六甲中学校に教練査閲がはいった時点では、武宮先生は後備役ではなく、陸軍予備役少尉でいいのでしょう。

 ここまでまとめますと、明治35年(1902年)生まれの武宮先生は、大正10年(1921)に一年志願兵として麻布第一連隊に入隊します。大正1112月に予備役となり、大正143月に予備役少尉となります。その後、早い時期にドイツ(正確にはオランダのドイツ語圏のファインケンブルグ)にある聖イグナチオ大学に留学することになったようです。ここに砲術家として名高い士族の家系に生まれ、予備役少尉でドイツに留学した神父という武宮先生が誕生します。
 
 麻布第一連隊は、その連隊区としては東京の麹町、神田町、日本橋区、京橋区、芝区、麻布区、赤坂区、四谷区、牛込区、小石川区と多摩、神奈川の一部でしたので、故郷の島根県から東京に移り住んだようです。連隊入隊が1921年、生誕が1902年とすれば、19歳で入隊したことになります。旧制中学校は16歳で卒業ですから、どこかの学校に行った後に入隊したと考えてもよさそうですが、どこの学校に行ったかは不明です。

便所当番や運動会の行進などは、こうした軍隊生活と関連があるかもしれません。

4 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

武宮さんのご先祖がキリシタン大名の大友家の流れであることからして、大友家とつながるイエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルの洗礼を受けたキリシタンであった、その後も隠れキリシタンとして明治まで続き、最後に武宮隼人さんがイエズス会に入り、武士道とカトリックの融合した独特の道に達した、と言うようなことを夢想すると、面白いですね。

広瀬寿秀 さんのコメント...

はい、そうなんです。私も大友家との関連からそうした考えを持ちました。ただどうして武宮先生が神父になったのか、そこがわかりません。学校の方に問い合わせてもいいのでしょうか、たかがブログのためでは、気が引けています。
ただ初代校長の武宮先生が、由緒ある武家の出というのは、六甲学院の校風をみると合点がいきます。

匿名 さんのコメント...

ほんとに、今考えますと、学校時代も武宮さんがどうして入信したかイエズス会に入ったかなどいうことは、考えもしませんでした。外人の神父さん達がわざわざ遠い日本にまでやって来て(もちろん家族等とは縁を切るようにして)教育に携わっておられるのは大変なことだと、感心してはいましたが。
友達も誰も話題にもしませんでした。
もちろん、ご本人が何かの機会(説教の時とか)にそれをお話になったとも思われません。
ある意味、武宮さんが神父の校長として存在するのは、六甲としては天地開闢以来当然のことと認識されていたのかも。
なぜ、今頃になってこのような事が気になるのか、自分でもおかしいのですが、また、お調べになってお分かりになられましたら、ブログにアップお願いいたします。

広瀬寿秀 さんのコメント...

創立者の思いというのは、学風に反映されます。私も、学生時代は全く何とも考えていませんでしたが、この歳になると、六甲学院の学風は普通のミッションスクールとは違うと痛感されるようになってきました。この違いを突き詰めると、創立者の武宮先生のたどった道が反映されているように思えました。今回、調べた結果でも、サムライで軍人であった履歴がそのヒントになるかもしれません。
フランチェスコ会ですが、上智大学、ドイツの神学校で勉強して、北海道の札幌光星学院の創始者の武宮雷吾という人物がいます。武宮隼人先生の4歳上になります。武宮という名は少なく、兄弟だった可能性もあります。これは津軽の話ですが、笹森順造という人物がいます。兄の卯一郎は長崎の鎮西学院の中興の祖、弟の順造は弘前の東奥義塾を再興したメソジストの牧師で、父は弘前藩の槍師範でした。武宮先生も同じような経歴にように思えてしまいます。もう少し、調べてみたいと思いますが、ここからはネットでは検索できない事項となりますので、時間はかかると思いますので、ご了承ください。