弘前こぎん研究所(木村産業研究所 1932) |
スタイン邸 1928 |
NHKのブラタモリは毎回、変わった企画で、博学なタモリさんのコメントと共に、楽しめる番組である。いつかは弘前にも来てほしいと思い、勝手の企画してみる。
キイワード: サムライとキリスト教
弘前は400年続く城下町で、春の桜で有名な弘前城はじめ、多くの歴史的な建造物が残っている。一方、洋館や教会などの西洋的な建築もたくさんあり、古いものと新しいものが混在した不思議な町でもある。今回は、東北の片隅にある青森に、どうして多くの洋風建物が建っているかを探ってみたい。
1.
イントロ
弘前市在府町から始まる。サワラの生垣に囲まれた古い家が立ち並ぶ住宅街。歩いて行くと、突如、現代的な建物が登場する。「ここで質問。この建物が建てられたのはいつでしょう?」、タモリさん、「別にどうってことない建物ですが。30年前といえば、当たり前すぎる回答なので、戦後すぐじゃないですか」、「実は昭和7年(1932)、80年以上前に建てられたものです。東京文化会館の建築で有名な前川国男さんがフランスから帰国後の27歳の時に建てた建築物で、師事したフランスのル・コルビジェの近代建築を日本で初めて体現化した建物です」、タモリさん「昭和7年と言えば、都会でもこうした近代的な建物は少なかったでしょうに、いっちゃなんですが、弘前のような田舎で、いきなり出現したんじゃ、びっくりしたのでしょうね」、「昭和10年に弘前を訪れたドイツの著名な建築家、ブルーノ・タウトも“どうしてこんな辺境の地に、コルビュジェ風の白亜の建物があるのか”と驚いたそうである」。
続いて、ここから100mほど離れた”からかねばし、唐金橋)に向かう。ここで得意の地形学的な見地から南溜池を推測してもらう。
続いて、ここから100mほど離れた”からかねばし、唐金橋)に向かう。ここで得意の地形学的な見地から南溜池を推測してもらう。
解説: 木村産業研究所(1932)は、日本近代建築の礎を築いた前田国男がル・コルビュジェのアトリエから帰国後、最初に建てた建物である。弘前には前川の初期から晩期の建物が多くある。弘前市中央高校行動(1954)、弘前市庁舎(1958)、弘前市民会館(1964)、弘前市立病院(1971)、弘前市市立博物館(1976)、弘前市緑の相談所(1980)、弘前市斎場(1983)などである。なぜ、こんなに多くの前川の作品があるかというと、前川の母親、菊枝さんの実家が弘前で、菊枝さんの兄は有名な外交官佐藤尚武(後に外務大臣)で、前川もフランスに行く折、このおじを頼ったことに端を発する。同じく津軽藩士で、広島電力の社長を努めた木村静幽が、郷里弘前に地場産業の研究機関を設立しよう考えていたが、ちょうど佐藤尚武と通じて前川と親交を結び、木村産業研究所の設計をすることになった。その後、その縁から弘前の公共建築にたずさわった。ちなみに珍田捨巳の妻いはは、一緒にアメリカに留学した外交官佐藤愛麿の妹で、佐藤愛麿の養子になったのが、いとこの田中坤六の次男の尚武ということになる(愛麿の三女文子と結婚した)(アーハウス 前川國男と弘前(アーハウス編集部))。佐藤尚武の父、佐藤愛麿は津軽藩の重臣、山中兵部の次男で、明治8年に洗礼を受け、同じく士族の佐藤清衛の養子となった。明治9年に東奥義塾からアメリカノアズベリー大学に入学し、外交官となった。
木村産業研究所(現 弘前こぎん研究所)は、鉄骨コンクリート造の2階建ての建物で、白亜の外装、横長の窓、吹き抜けなどモダニズム建築の特徴をよく伝え、コルビジェ風建築の最初期の作品として知られている。本来は連続した長い窓を考えていたようだが、当時の日本ではサッシによる窓を作る技術が発達していなかったので、使えなかった。もし連続した長い窓が使われていたなら、よりコルビジェの作品、例えばガルシュのヴィラ(スタイン邸,1928)などに近いイメージになったのだろう。
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