2016年6月15日水曜日

ブラタモリ in 弘前 Part3(妄想)

アレクサンダー婦人の墓 最勝院

弘前教会二階和室

東奥義塾図書館 収蔵本


4. 最勝院
 タモリさん、「へえ、こんなところに五重塔があるのですね」、「寛文7年(1667)にできたもので、すでに350年近く経ちます。日本最北の五重塔です」。寺の奥にある墓所に向かう。さらに墓所の奥の方に進んでいく。「ここにある墓石をみてください」、タモリさん「あれ、墓石の横に聖書の言葉が書いていますね」、「はい、ここはキリスト教徒の墓所です」、タモリさん「日本のお寺にキリスト教の方のお墓があるのはめずらしいですね」、「この白いお墓は、明治30年に東奥義塾にやってきたカナダ出身の宣教師、アレクサンダーの婦人の墓です」、タモリさん「なぜここに墓があるんでしょうか」、「アレクサンダー婦人は明治32年に起こった宣教師館の火事に亡くなりました。市民はその不慮の死を痛み、ここに墓を建てたのです。」

解説:R.P.アレクサンダー婦人(1867-1899)はカナダ出身で、地元の師範学校を卒業後、アメリカボストンの音楽学校を卒業した。宣教師のアレクサンダーと結婚後、明治30年に幼児を伴って弘前にやってきた。青山学院で声楽を教えたこともあり、子守学校(幼稚園の前身)にも関心を持ち、協力した。アレクサンダー婦人の悲劇は、弘前市民にも深い悲しみをおこし、死を悼む弔慰金は3600円に達した。それはすべて彼女が関心を示していた幼稚園の開設に使われることになりアレクサンダー記念幼稚園(現在の若葉幼稚園)が開設された。最勝院の理解ある配慮で、その大理石の墓は寺内の墓地に作られ、それを縁に教会関係者の墓が増えていった。

5.弘前教会
 最勝院から300mほどの弘前教会に向かう。タモリさん、「古い旅館の隣の教会がありますね」、「この旅館は明治12年創業の石場旅館です。隣の弘前教会は明治8年にできた東北で最も古いプロテスタン教会で、この建物は三代目のもので明治40年にできたものです。この他にも明治43年にできた弘前カトリック教会や大正9年にできた弘前昇天教会など多くの教会があります。それでは教会に入りましょう」、教会に入って、牧師さんの案内で内部を見せてもらいます。牧師さん「この教会にはおもしろいところがあります」、と教会の二階に案内される。そこには襖に仕切られた和室がある。タモリさん「へえ、和室の集会場みたいになっているですね」、「全部で30畳あります。ここで自由民権運動や会議が行われました。青森はリンゴで有名ですが、元々はアメリカから来た宣教師のジョン・イングがその故郷のインディアナから持ち込んだリンゴが始まりでした。印度リンゴですね」、明治9年の青森市での天覧授業の写真を見せる。「写真の真ん中の人物がジョン・イングです。写真左の人物がこの教会を作った本多庸一です」、タモリさん「ははあ、わかったサムライとキリスト教というのは、この本多さんがサムライだったからでしょう」、「本多は弘前藩でも、将来を期待された人物で、明治の始めに英語を学びに横浜に行って、次第にキリスト教に入り込んだです。故郷に帰ると、本多が信じるものならと、士族を中心に多くが改心しました。弘前出身だけで200名以上の牧師が出ています」。
 ここから200m離れた東奥義塾宣教館に向かう

解説:弘前教会は、青山学院の二代院長、本多庸一(1849-1912)らが中心となって設立された教会である。本多は日本メソジスト教会の初代監督で、新島襄、内村鑑三と並び表せられる、近代日本キリスト教の巨頭である。明治3年、英語勉学のため横浜留学した折、キリスト教に感化され、明治5年に宣教師バラから受洗する。弘前に帰ると、郷里で布教活動を進め、弘前教会および東奥義塾の設立に奮闘する。ジョン・イングは明治7年に東奥義塾の英語教師として本多から請われて、弘前に来た。人格的に優れ、多くの若者がキリスト教徒となった。さらにイングの斡旋により東奥義塾の学生、後に外交官となる珍田捨巳や前川国男の妻の祖父にあたる佐藤愛麿などがアメリカのデポー大学に留学した。もちろん佐藤愛麿は初期に受洗した一人であり、また山田良政、純三郎兄弟も教徒である。明治時代、弘前から20名以上の海外への留学生、20名以上のアメリカからの宣教師がいた。弘前に関連した牧師は200名以上いて、歴代の青山学院の院長に、弘前出身の本多庸一、阿部義宗、笹森順造、古坂嵓城(両親が弘前出身)がいる。

6.旧東奥義塾外人教師館
 弘前教会から100mくらいのところにある旧東奥義塾外人教師館に向かう。タモリさん「この建物は何ですか」、「外国人教師用の宿舎です。明治36年に建てられました」、タモリさん「結構金がかかっていますね」、「最初の外人教師は日本風の屋敷に住んでいましたが、勝手が悪く、明治23年に外人教師館を建てました。ただ火事で焼失、その際に亡くなったのが最勝院に墓があったアレクサンダー婦人です」、さらに一般人が立ち入り禁止のところを見せてもらう(不明)

解説:火事で最愛の妻を亡くしたアレクサンダーは、その後、再婚して明治34年に再び志願して弘前に来た。火事で助け出されたジョージ(当時4歳)、実妹のV.E.アレクサンダーと一緒に再建されたこの外人教師館に住んだ。10年にわたり弘前に在住し、夜間英語学校も開いて、夫婦と妹、その他2名の外国婦人宣教師と一緒に市民に英語を教えた。

7.東奥義塾高校
 タモリさん「市内から大分離れたところに来ましたが、この高校はミッション系の学校でしょうか」、「もともとは旧東奥義塾外人教師館があったところに学校がありましたが、ここに移転しました」、学校の図書館に案内される。タモリさん「高校の図書室にしては大きいですね」、「蔵書数が7万冊あり、東北でも最も大きな図書室です。」といって、資料室に案内する。あらかじめ用意しておいた江戸時代の和漢書が並んでいる。タモリさん「高校の図書館にどうして江戸時代の本がこんなにあるんでしょうか」、「弘前藩には子弟教育のための学校、稽古館がありました。創立は1796年ですが、この学校は藩校から移行した学校で、稽古館にあった図書もそのまま引き継がれました。およそ5000冊の和漢書があります。」タモリさん「江戸時代の藩校が明治以降にミッションスクールになったわけですが」、「はいそうです。」、続いて図書館の明治時代の英語本の所蔵を見せる。タモリさん「これは何ですか」、「当時、学校で使っていた教科書などです。授業のほとんどは英語で行っていました」、タモリさん「今ではそんな学校もありますが、当時は進歩的だったでしょうね」、「学生は大変でしたが、アメリカのカレッジのレベルの内容でしたので、ここで学んでアメリカに留学してもすぐに授業についていけたようです」、タモリさん「明治になってサムライたちは、キリスト教、宣教師にふれ、それが縁で城下町に西洋風の建物があるモダンな弘前という町ができたのですね」

解説:函館、神戸、横浜のような開港地でない弘前に、明治時代の多くの西洋風の建物がある理由は、明治初期に本多庸一が、キリスト教に帰依したことと、東奥義塾の存在が大きい。メソジストの拠点として多くの外国人宣教師が滞在しただけでなく、東京経由でなく、いきなり海外に留学する若者を多くいた。明治時代、キリスト教はまだ異教として馴染みの薄いものであったが、弘前ではそれまで地域の中心であったサムライが積極的にキリスト教に改心し、また学校を作ったところで、日本でもめずらしい地域である。

0 件のコメント: