難波幼稚園、昭和31年頃 |
最近では、「あまかりん」の著者で放送作家である高須光聖とダウンタウンの松本のラジオでの収録をYoutubeで聞いている。とくに面白いのは二人とも尼崎生まれの同級生のため、昔の尼崎をさんざんにいじっっている。同級生の母親のことや、近所のおじさん、おばさん、商店、食べ物屋、あるゆることがなつかしく、おかしく語られている。よく覚えているものである。ただダウンタウンの遊び場がJR尼崎の北側、潮江地区であったが、私の地元は阪神尼崎付近であったので、全く潮江のことは知らない。むしろダウンタウンは買い物に三和商店街に来ているので、彼等は阪神尼崎駅前のことも知っている。
当時の子供達は、大体500m四方が縄張りで、その中には大抵3軒ほどの駄菓子屋があり、小遣い10円を持って、その三件を順繰りに通う。家の3軒隣に一番よく行った駄菓子屋があった。ここではまずベロベロと呼ぶわらび餅のようなものがあり、一回一円が二円で、10円でも何回かくじを引け、当たると大きなベロベロがもらえた。また紙にはっかを塗ったものや、試験管のようなものにゼリーが入ったものもあった。いずれも得体の知らない、体によくないものであろう。木村産婦人科の前の駄菓子屋というか食堂は、30円くらいで具のないキャベツのみのお好み焼きや、10円のちょぼ焼きというものがあった。他にはセンター市場近くのところでは、当り付きの甘納豆がよく売れていた。また昔の青線地帯のあったところの駄菓子屋は婆さん一人でやっていたためか、子供達のカモにされ、10円でその倍以上のものをせしめていた。ここらは共同便所、台所の小さなアパートが多くあり、6畳一間に5人くらい住んでいた。少しぶっそうなところでめったに行かなかった。
こうしたものを少し食べてから、路地に行くと、何名かがビー玉をしている。まず線を引き、そこから2mくらい離して穴を開け、その左右と前に同じ穴を開けて、ビー玉をはじいて進めるゲームである。相手のビー玉に当てて妨害すると同時に先に進む。ベッタンはメンコのことで、単純に相手の札を裏返すゲームもあったが、もっぱら十枚ほどをかけて、その中の一枚を抜き取るというゲームがメインであった。古面と呼ばれる時代がかったメンコがあり、新しいもの何百枚と交換された。貴重なもので、当時でも図柄がかなり古く、おそらく昭和30年よりは古いものだった。子供の世代で継承されていったのであろう。
難波小学校の隣の公園もたまり場で、銀玉鉄砲、2B弾による戦争ごっこ、三角野球、ゴム鉄砲による鳥打ち(スズメ、はと)、たまには紙芝居もきたが、最も子供達が熱中したのは粘土を型に入れ、それに銀粉、金粉で彩色したカタ屋と呼ばれる露天商で、多くの子供が集まった。おじさんが大小の粘土型をもってきて、それを売る。小さいものなら子供でも買えたので、粘土と金粉、銀粉も買って、粘土を型にいれて、魚や人形の型を作る。そこに金粉、銀粉を塗って完成させる。できがよいと店の前の板に飾ってくれ、券をくれる。券を何枚か集めると、点数に応じてより大きな型をもらえる。こつはできるだけ気泡のない状態で型にいれること、さらに出来上がった型粘土につばを使って表面を磨く、線はよりはっきりと強調した上で、粉を塗り付ける。この下地作りに力を入れることがこつである。
毎日毎日、よく遊んだが、こうした日々も中学受験を目指す小学5年生ころになると終わった。
2 件のコメント:
広瀬様
尼崎のブログを懐かしく読ませていただきました。
先日、尼崎商工会議所で昭和中学校の同窓会がありました。
私は、昭和26年生まれです。お兄様と同じクラスだったことが判りました。
ねこ吉
それは奇遇です。兄は大阪の明星高校に進み、現在、西宮で歯科医をしています。昔の難波幼稚園の写真がありましたので、添付しておきます。ねこ吉さんの頃の写真です。どこかに写っているかもしれません。
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