2018年7月6日金曜日

弘前藩の忍術書



 弘前で忍術書が見つかったというニュースが74日の朝日新聞、毎日新聞、サンケイ新聞など全国紙の記事となった。新聞によると、京都市の忍術研究家、上田哲也さんが今年の3月に弘前市立図書館で調査した文書の中に、武器の作り方やまじないの文言などが書かれた忍術書を発見したという。その後、青森大学の清川繁人教授や青森県古文書研究会の辻敏雄さんらと解読を進めたところ、甲賀忍者や伊賀忍者に伝わる忍術などが書かれているだけでなく、独自の記述も多く、また漢字と片仮名を交えた文章からも江戸中期のもので、弘前藩家老、棟方作兵衛が死去し、忍者集団の早道之者が解散された1756年ころに棟方家の関係者が後世に忍術を伝えるために書いたとしている。さらに明治42年に岩田清三氏より図書館に寄贈されたが、清三氏の父を戊辰戦争に参軍した岩田平吉と推定し、弘前藩の忍者の指導役だったとされる「棟方家」の一族とは同じ部隊で、弘前城下の居住地も近かったことから、棟方家の忍術書が岩田家に送られたとしている。

 かってに写真を引用して申し訳ないが、この忍術書には寄贈者として岩田清三の名が載っている。岩田清三は岩田平吉の子ではなく、孫である。弘前市の仲町の武家屋敷、岩田家にある説明によれば、岩田家は初代、大膳から始まり、十代が平吉恵則(御馬廻番頭格御祐筆、五両一人扶持、西洋砲術師範、明治28年(1895)没)となっている。その子が亮次郎(安政3年(1856)生まれ、明治41年(1908)没)で、孫が清三(明治17年(1884)生まれ、昭和26年(1951)没)である。つまり清三氏が25歳の時、おそらく前年に亡くなった亮次郎の遺品の一部を弘前図書館に寄贈した。岩田平吉は幕末、江川塾で砲術を学び、弘前藩の砲術隊長として活躍した人物だが、明治五年には上京して海軍省造船局砲器科に勤めた。明治20年代に弘前に戻り、明治28年に亡くなった。ということは、平吉の子、亮次郎は16歳で父と一緒に上京した可能性が高く、15年ほどしてから弘前に戻ったのか。

 忍者書の現物を見たわけではないし、専門家でもないのに、適当なことを言うなとお叱りを受けると思うが、まず“漢字と片仮名を交えた文章”から江戸中期の書とするのは、どうかと思う。忍術書として有名な“万川集海”(1678年)も漢字と片仮名混じりの文だし、江戸時代でも科学書などでは唐文字の楷書と片仮名の本はある。ただ楷書漢字に片仮名を交えた文章は、むしろ明治期の本として考えた方が、江戸中期、宝暦の頃のものと見るよりは理解しやすい。これは古文書の時代鑑定の専門家がいるので、調査をすれば簡単にわかるだろう。また早道ノ者は、家老あるいは大目付が物頭を兼ね、その配下として早道ノ者小頭、早道ノ者、見習いなどからなり、小頭、早道ノ者は世襲かもしれないが家禄が少ない軽輩である。忍術書があったとしても、こうした書を小頭あるいは早道ノ者の子孫が持つのはわかるが、より上位、それも度々交代する家老が持っていたとは考えにくい。さらに幕末、棟方滝根(作兵衛の四代後の子孫、晴吉貞敬の長男、忠一)の住まいは長坂町、平田平吉の家は小人町で、それほど住まいが近いとは言えない。表紙には「雑 レ四ノ二  忍之巻」とあり、他のシリーズの中の四ノ二であり、この書だけ取り上げ、忍術書として扱うのはどうかと思う。シリーズ全体の一部として評価すべきあり、他の巻は武芸やまじないなどを集めたものであれば、これだけを忍術書として時代、由来まで決めるのはどうであろうか。

 いずれにしても現物があるので、大学や研究機関の専門家が調査すれば、もう少しはっきりするだろう。弘前藩に忍者がおり、忍術書もあるというには全国的なニュースになるかもしれないが、大騒ぎして後でそうではありませんでは、恥ずかしいことなので、十分調べてから、改めて観光資源などへの活用を検討したらどうだろうか。

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