2018年7月20日金曜日

早道之者 追加





 図書館に久々に行った。最近はこれといって特別に調べているものがないためだと思う。弘前藩の古武術について調べていると、「津軽のやわら 本覚克巳流を読む」(太田尚美著)に戸田導(道)場の「門人帳」に、弘前藩の忍術集団、早道ノ者所属の阿保源八が天保七年(1836)に入門したことが記載されている。また文政十三年(1830)の入門にも早道ノ者、小野良助の名がある。明治二年弘前絵図では小野良助の名はないが、阿保源八の名は紺屋町足軽町にある。浜の町から岩木川の橋を渡って町への入り口、紺屋町枡形のところである。同書にある慶応四年(1868)?「両術伝授名前留帳」にも阿保源八の名がある。

 弘前藩記事をみていくと一巻に 早道ノ者、伊三郎倅、佐々木良作の名がある。また四巻には履歴調があり、その中には4名の早道ノ者の履歴が載っている。
まず外崎九八郎、文政三年十一月二十三日生まれ、東京で公用人吟味方をしていたが、秋田出張の折、病没。大森藤次郎。文政十年一月生まれ、庄内、仙台、秋田、南部各地を探索、明治後に安祟と改名。明治二年弘前絵図では田茂木町のその名がある。斎藤定一。天保十二年一月生まれ。隠密活動をし、維新後は第三大区第一小区目付(警察?)。斎藤雄司。文政十年十月生まれ。一年中斥候として各所探索。明治二年弘前絵図では斉藤勇司の名が品川町にある。同一人物である。

 他には工藤大輔著「青森勤番並同所御蔵廻御取締方見聞言上書」には文政四年(1821)、相馬大作事件にあたり密告者からの情報を報告した早道ノ者、工藤千蔵と高木半右衛門のことが書かれている。彼等の職種は、青森勤番、同所御蔵廻御締方となっていて、常に探索、間諜に従事していたのではない。

 履歴調を読んでいると、すべてではないが、父親が早道ノ者で、それを子供が継ぐケースが多い。忍者集団と言われていても実際の仕事は各地の探索であり、その場合、一番大きな問題点は言葉である。商人に化けて全国を探索する場合、津軽弁だとばれてしまう。商人言葉のようなばれない言葉をしゃべる必要があり、そのためには子供のころからそうした環境に育てられなくてはいけない。世襲の方が有利となろう。幕府では、伊賀、甲賀の忍者たちは、江戸城の警固の仕事などをして、間諜などできなくなったため、新たに組織されたのが隠密御庭番である。弘前藩の早道之者は、幕府の御庭番と性格が似ており、それに準じるなら、普段は城内の警固をしていたが、家老からの任務があればその仕事に従事したのであろう。鹿児島の薩摩藩ほどではないが、弘前藩は、陸路は秋田藩との境の大間越、碇ヶ関と八戸藩との境の野内の三つが有名で、それと海路の港を見張れば、ほぼ鎖国を達成できる。さらにはこれも薩摩藩と同じく、方言が強く、よそ者がばれやすく、他国者が藩内で探索するのを難しくさせている。相馬大作事件の際には、弘前藩から盛岡藩や仙台藩に間諜を送り込み情報を得ていたし、幕末では仙台、秋田、盛岡、京都、江戸、北海道にも間諜が送られていて、そこで得られた情報による藩の進路を決めた。


 こうした意味では、弘前藩の早道之者は、軽輩ながら、藩にとってはたいへん重要な仕事をし、とりわけ幕末期、幕府方より官軍派に藩論を急旋回した理由のひとつに早道之者による情報も役立ったのだろう。

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