メアリー・リンド、世界周遊記、明治27年、上の写真とは逆方向からの眺め、家の前には溝があった。
3.
具体的な例
追手門から市役所と図書館の間の道をみてみよう。「弘前大絵図」では7間12.6mの広い道である。今は歩道も入れて12.6mでほぼ一致している。図3は東奥義塾の宣教師であったマックレーの本に載る同じ道の挿絵である。この本は明治七年に書かれ、左の二階建ての西洋館(弘前最初の西洋館、本町一丁目の佐々木元俊の家、明治七年に建てられた。)を除くと、ほぼ江戸時代の町並みである。図4はメアリー・リンドの世界周遊記(明治27年)に載る同じ道の写真である。明治27年で写真であるが、明治七年とあまり変化はない。城方向から本町方向の写真なので、二階建ての家は右に見える。雨上がり直後か、かなりぬかるんだ道となっている。家の前には細い溝のようなものがあり、道からは小さい敷居を通して入る。建物は変わっているが、道そのものは江戸時代と同じである。こうした写真や絵をみるとよくわかる。
4. その他
江戸時代、弘前の町中には岩木川、土淵川から堰(水路)が町中に血管のように分岐していた。各家には井戸があって、飲料などはこの水を使ったが、洗濯や野菜の洗い、あるいは農園の水やりにはこの堰の水を使ったと思われる。明治二年弘前絵図にも記載されているが、細かい通路が不明であったが、この「弘前大絵図」では堰の道筋もはっきり記載されている。さらに堰が道を横切る場所では、方法としては暗渠か、そこに小さな橋をかける方法が取られる。橋をかける場合も兼平石のような平の石を使う場合や、木造の場合もあり、また道幅全体にかけるか一部にかけるかがある。この絵図では木造の小さな橋を道の真ん中にかけることが示されている。大きさは道幅の半分くらいのところや道幅一杯のところがある。堰の幅は町中ではせいぜい50cmくらいなので橋がなくても乗り越えられるが、雪の時には橋のないところは、ズブット足が入ってしまうだろう。また木製なので、頻回の修理が必要だった。
この「弘前大絵図」は調べると非常に面白い絵図であり、明治二年弘前絵図には載っていないキリシタン処刑場とされる四ツ堰も描かれている。一軒だけ堰上にある「山田司?」という人物が非常に気になる。全くへんなところに家がある。こうしたデジタルデータがあれば、高校生くらいでも充分に研究でき、夏休みの課題として、明治二年弘前絵図(1868)と比較、例えば道幅の詳細な変化、戸主の変遷な、町家と士族の屋敷の違いなどを研究できよう。さらに私は明治8年の新町地区の地籍図のデータを持っているが、それには「弘前大絵図」と同じく、家の敷地(幅、奥行き)や道幅が載っている。これと「弘前大絵図」との比較により、1800から1868年までの土地所有とその変遷も調べられるだろう。色々な活用が考えられる。全国高校生歴史フォーラム(地歴甲子園)では、こうした高校生による研究を募集しており、きちんとした指導者がいれば、こうした絵図を利用してすばらしい研究ができるだろう。
*上の3枚の写真は勝手の引用しました。申し訳ございません。
|
0 件のコメント:
コメントを投稿