2018年12月20日木曜日

大阪万博と舶来もの




 2025年、大阪で二度目の万国博覧会が行われる。今から楽しみであるが、反面、1970年の万博のような熱気は絶対に起こらないであろう。あれほどの時代の熱気はもはや平成になってからは不可能である。あの熱気は、昭和という時代でなければ無理だったと思う。1970年というと昭和55年。これは戦後35年ということになり、終戦時20歳だった成人が、55歳ということになる。つまり当時の55歳以上の日本人は全て戦争経験者者なのである。戦中、戦後の苦しい生活を経験した上の、東京オリンピックであり、大阪万博なのである。あの頃、終戦時のことを思うと、なんと日本は発展してことか、誰しもが思った実感であろう。それゆえ、参加者はかなりの思入れを持って計画、建設、運営に全力を捧げた。19703月から9月までの183日間の会期で入場者数は6420万人、そのうち外国からの入場者は170万人であった。日本人のほぼ半分以上が見に来たことになる。

 1970年というと私は14歳、中学二年生で、確か兄や友人と万博に3、4回見に行った記憶がある。まずアメリカ館とソビエト館が人気の中心であったので、朝早くからゲートに並び、開門と同時にどちらかにダッシュする。ゲートからは少し距離があるので、体力にものを言わせて大人や老人を追い越し、アメリカ館、ソビエト館に走っていく。どちらも30分くらい並んで見られた記憶がある。その後、少し人気にないパピリオンを周り、3、4回でほとんどのパピリオンを回ったと思う。今と違い、当時は外国製のものはなかなか手に入らず、カナダ館ではビーバの毛で作った人形を買ったり、フランス館では本場のランチを食べたりした。他のパピリオンでも併設の食堂やお土産屋で様々なグッズが売っていた。どれも大阪のデパートにもないもので、万博会場でしか手に入らない。また尼崎に住んでいた私は、学校には外国人の神父がいたもので、街で外国人も見ることがなく、万博でも何人かの外国人に声をかけて記念にサインをもらった。あちらも見知らぬ日本の中学生からサインを求められ、さぞびっくりしたことであろう。また夏休みに、母の言うことを信じて当時販売され始めたマドラス柄のトランクス下着を短パンと勘違いしてはいたまま万博に行った恥ずかしい記憶がある(数年後に気づいた)。

 最終日に近づくと、各パピリオンでも装備品の販売を行っていて、確かフランス館の人間の形をした椅子を売っていて、欲しいと思ったが、電車で持って帰るにはあまりに大きく諦めた。今でもそうだが、どうも外国、特に欧米に対する憧れがあり、舶来ものとして喜ぶ癖が私にはある。私の診療所も、3つの歯科用ユニットはアメリカ製が2台、ドイツ製は1台、滅菌器はカナダ製とアメリカ製、さらには2台のエアーフロー機器はスイス製、レントゲン装置はフィンランド製、光重合機はデンマーク製、矯正機材をしまうキャビネットはイタリア製、これだけ舶来品に囲まれている。さらにいうと、矯正機材のほぼ半分はアメリカ製である。私の舶来ずきは、どうもこの大阪万博から始まったのかもしれない。流石にインターネットのストリートビューで世界中どこでも見られる状況では、万博の各国のパピリオンを見てもそんなに大きな感動もないだろうが、それでもこの時しか見られないような驚くような工夫を観客に見せて欲しいものである。

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