2019年4月24日水曜日

デイパックの誕生

日本最初のデイパック? タウチェ

シェラデザインズのデイパック(復刻)


 今では若者からお年寄りまで大人気なのがデイパックで、色々なものが入れられ、両手が使えるため、非常に便利である。背負式のかご自体は古くからあり、日本でも竹やアケビを使った背負いカゴは昔からあったし、軍隊では両手で銃を使うため、背嚢が明治時代から使われてきた。一方、登山についてはイギリスやドイツでは布製のリュックが発明され、明治時代に日本にも導入されて登山用として使われるようになった。さらに学習院では小学生のために軍隊の背嚢を改良してランドセルが用いられるようになり、昭和30年頃から次第に多くに小学校でランドセルが使われるようになった。

 背負式の荷物入れの系統は、軍隊の背嚢にルーツを持つものと、登山用のリュックにルートを持つものに分かれる。ランドセルは軍隊の背嚢にルーツを持つ。私が子供の頃は中学生、高校生は重い革製の鞄であったが、家内に聞くと昭和50年頃には弘前市内の中学校はリュック式の通学カバンであったという。ナイロン素材に学校のマークと文字が入っていた。このルーツを調べると、京都のマルヤスというメーカーが小学生の通学カバンとして「ランリュック」というナイロン製の軽いランドセル兼リュックサックを昭和43年頃に作られた。その後、このランリュックを採用する学校も増えたというが、おそらく雪で滑りやすい道を歩くため、こうした背負式の通学カバンが雪国、弘前の中学校でも使われるようになったのだろう。ヨーロッパでは、横長の手提げカバンを背中に背負うようなタイプの通学カバンが使われてり、ボーイスカウトや少年団などで登山用のリュックが使われた。

 現在のデイパックは、おそらくは1950年頃からのフレーム式のバックパックから生まれたものである。フレーム状のバックパック形式のリュックはインディアンらも用いてきたが、登山ブームが起こるに連れて、アメリカではヨーロッパと違うアルミのフレームを背中に背負い、そのフレームにいろんなタイプの荷物入れをつけるスタイルができた。このスタイルはその後、登山には使われなくなったが、若者のヒッピー文化の共にバックパッカーと呼ばれる旅行者を生む出すことになった。バックパックの中にストーブからシェラフ、食料などをすべて詰め、世界中のあちこちを旅する、そうした生き方が流行った。日本でもその一種として大きなリュックを背負い、北海道のSLを見に行き。写真を撮る集団が現れた。

 一方、アメリカではこのバックパック文化から、まず1970年代にケルティーという会社が初めてのデイパックを作った。当初は、一日の登山用のものであったが、次第に街用のバッグとして活用されるようになった。同じ頃にジャンスポーツも小型のリュックを発売し、これは小・中学生の通学カバンに使われようになった。こうした両手を自由に使えるバッグの誕生は瞬く間に若者を中心に使われるようになった。その後、シェラデザインズの二室式のデイパックがでたり、日本でも国産のタウチェというブランドのものが作られた。私が1975年頃に買ったのはタウチェの赤のデイパックで、仙台の登山シップで買った。

 当時、私は創刊されたばかりの雑誌ポパイにすっかりハマり、自転車は仙台の自転車にあった型遅れのクロモリのロードバイク、ジーバンはリーバイスの501にカンタベリーのラガーシャツ、シェラデザインのダウンベスト、ノースフェイスの60/40パーカーに、靴はアディダスのスタンスミスという格好であった。ここに登山ショップで唯一見つけたタウチェの赤のデイパックに教科書やサッカーの用具を入れて持ち歩いた。こうした格好で信号待ちをしていると、よくおばさんからどちらの山に行かれるのですかと言われたり、その後三年ほどすると、衛生士をしていた家内の後輩からは、日系二世と間違われたりした。

 このころで買わなくてよかったのは、盛んにポパイで宣伝していたトニーラマのウェスタンブーツで、神戸の専門店まで試着に行ったが、あまりの履くのの大変さに流石に購入を諦めた。多分ほとんど使わなかっただろう。

 ロードバイクは一時かなりのめり込み、上はパールイズミのイタリアンブルーのジャージとパンツ、当時は固定ペダルはなく、ストラップ式のもので靴も底が木でできていた。休みになると仙台—松島間をよく走った。その後、一番町の喫茶店モーツアルトに行くのが定番であったが、今考えるとお恥ずかしい。

 デイパックは、1970年以降、非常に進歩して普及していったが、世界的にみて、日本のランドセル、および京都のランリュックは登山、軍隊以外で使われた早い例であったと思う。

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