2020年8月3日月曜日

香川芳園 2

兵庫県漁具図解 香川芳園の画風とは違う

香川芳園 イタリアのオークション


 天保十一年(1840)に京都府上京区西大路町に住む宇野助順の子として生まれる。宇野助順の名は、「勧修寺経理日記」に見られることから公家に使える人か。その後、香川行徳の養子となり、香川姓を名乗る。画は望月玉川(1794-1852)に学び、玉川の号、輝に慣い、江戸後期の画家、西山芳園と間違えられぬように芳園輝を名乗る。玉川の没後は、さらに岸岱(1782-1865)に学ぶ。明治になり、塩川文麟(1808-1877)や長谷川玉峰(1822-1879)にも習ったかもしれないが、明治四年くらいから大阪、神戸で弟子を取るようになり、さらには濱田氏(誰か不明)の依頼により外国人向けの作品を売るようになった。現在、海外の美術館にあるのは、この当時の作品であろう。近江、伊勢、尾張、紀伊などをめぐり、知見を深め、明治十六年には神戸市の依頼で兵庫県下の漁業の記録をとり、さらには京都府画学校に出仕した。養子先の香川行徳という人物であるが、略歴は全く不明であるが、京都の歌人、香川家、香川景嗣、景樹との関係もありうる。亡くなったのは明治40年(1907)だが、日本美術院など何らかの画家集団に所属することもなく、明治16年以降、何をしていたかは不明である。

 他には「蝦夷風俗絵巻」、「北海道土人風俗図」を描いた(明治309月)を描いた橋本芳園という画家がいる。絵巻の巻末に“明治二十六秋八月下旬、北海道根室国標津郡標津村於国支店写之 応需 芳園”とある。なかなかうまい絵を描くが、香川芳園と署名、印が全く違うので別人物と思われる。

 大英博物館にある芳園輝“の作品は1913年にGwynne-Evans William という人がArthur  Morisonが集めた作品を購入して博物館に寄贈したとある。アーサー`・モリソンはイギリスで作家として活躍した人物で、日本美術に興味を持ち、コレクターとなった。おそらく収集し始めたのは1890年後半以降、すなわち明治30年以降と思われる。モリソン自身は日本に行ったことがなく、収集はもっぱらイギリスであった。大英博物館にある”芳園輝“の作品は、もし香川芳園であれば、明治16年以降に香川芳園が描いたのかもしれない。署名から分類すれば、1。 西山芳園の楷書の優しい署名、2。芳園輝、芳園平吉輝”など海外の美術館にある作品の署名、3. 2と非常に似ているが、やや違う香川芳園の署名、4。 それ以外の贋作、あるいは“芳園”とする画家の作品の4つに別れる。2.3が、一緒かどうかが論争の焦点となる。2と3が違うと仮定した場合、西山芳園、香川芳園とは別の第三の芳園が存在しなくてはいけないが、明治期の画家でこれまでそうした人物がいない。逆に印が2と同じで署名が3であれば、23は同じともいえ、中国のコレクターの絵がこれに該当するのだが、署名は2とも3とも似ているが、同じではない。同じ画家でも年代により署名は変わり、こうした方法では解明は難しい。

 ほとんど記録のない画家について、その作品だけから調べるのは非常に難しく、同じ画家であっても年代によって署名、印象はかなり違うし、また作風も異なる。まずは海外にある“芳園輝”と香川芳園との関係を立証しようと考えているが、確実な証拠がない。

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