2021年8月6日金曜日

自分が絶対に正しいという考え

 


 最近、つくづく思うのは、人はどんなことがあろうが自分が一番正しいと考える生き物である。その次が自分の妻であり、さらには子供であり、友人であり、同級生であり、日本人である。人を殺す極悪非道の人物であっても、本人は、そうした行為を正当化する思いがあり、悪いことはしているとは思わないのかもしれない。

 

 ある家では、ジーパンを一度でも履くと、その都度、洗濯するのが常識であり、違う家ではジーパンは洗濯しないのが常識であり、またある家ではジーパンそのものを着てはいけないものかもしれない。毎日、ジーパンを洗う家からすれば、洗わない人を知ると“非常識”と言ってしまう。逆に洗わない人から見れば、毎日、洗う人は信じられないと思う。人はそれぞれ自分の考えが正しく、常識と考え、それとは違う考えを非常識と思いがちである。これは一つの例であるが、こうしたことはそれほど珍しいものではない。

 

 当たり前であるが、日本の常識は世界の常識ではないのと同じく、自分の常識は他人の常識ではない。平均、多数決という概念からすれば、ある考えの方が多くいて、その多数の意見が常識となる。ただ多数派が常識と言っても、その人の属する地域、社会、年齢により常識は異なる。津軽人は人の悪口が好きで、飲み会などの集まりがあれば、欠席者のうわさ、多くは悪口が、交わされる。ところがこうした悪口を聞いていると、どうも悪口を言う人の意見の方がおかしいことがある。例えば、ある有名なイタリアンレストランを値段が高くて、量が少ない、と悪口を言うが、私にすれば、同じレベルの東京の店の料金の半分以下であり、量も決して少なくはない。事実、このお店は多くの県外からにお客に賑わっている。ただ地元の感覚からすれば高いだけである。よく地方に行くと、なかなか地元の人に受け入れないと言うが、これこそ地元の常識とよそ者の常識が違うためであろう。青森の大鰐地区では部落ごとに共同浴場を持っているので、部落の住民の多くは家の風呂に入らずに、この浴場を利用する。ただ看護師さんなど夜勤で仕事の帰りが遅く、浴場の閉店時間に間に合わない人にとっては、家での風呂に入りたい。ところでここではそれがここでは許されない。共同浴場に入ることが、ここではそれが常識になっている。

 

 こうした多数による常識は、近年、急速に変化しており、今や大がかりの結

婚式や葬式は少なくなり、婚礼家具などは死語となっている。結納金も、今はいろんなパターンがあり、必ずしも渡すものではなくなっている。インターネットの発達により、地域、社会、年齢ごとの常識感は急速に変化しており、一方では先に述べたような津軽特有の常識は今後、消滅していくだろうが、逆に日本人は電車の中では喋らないといった常識が一般的になり、それに従わない人が非常識と批判される。ネットでは、地域、社会、年齢の違いが考慮されないため、一元的な解釈が幅を利かす。

 

 先日も産婦人科の先生が、妊婦の出産時に飲酒をしていたことが大きく叩かれていた。新生児が一時重篤な症状があったとことから、両親がこの医師をマスコミを通じて糾弾していた。ここの病院の評判はそれほど悪くなかったのに、このニュースが出た後はひどいレビューばかりが投稿されていて、おそらく68歳のこの産婦人科の医師は、こうした騒ぎに疲れて、病院を閉院するであろう。告発しているこの親からすれば、院長が引退すれば気がすむのかもしれないが、人の一生を左右させるほど自分の正論を表に出すほど自分は正しいのか。逆に自分の子供の具合が悪くなり、近所の小児科に夜間行くと、先生がすでに飲酒していて見られないと断られても、この親は納得するのだろうか。

 

 正論、常識は社会にとって大事なことではあるが、それがマスコミ、ネットを通じて個人攻撃になると、人の人生を左右することにもつながり、ある程度の寛容さが成熟した社会では求められる。


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