先日、浪川健治先生の「北の被差別の人々 乞食と革師」を読んだ。関西に住んでいた私からすれば、こうした微妙なテーマについては関心がある反面、あまり関わりたくない研究テーマである。弘前に住んでいると部落問題については、皆あまり関心がないし、学校教育でも、特別にこうした問題を取り上げることはなく、また新聞始めマスコミの記事でも見たことはない。
一番の原因は、そもそも穢多、非人と呼ばれていた被差別の人々の数が、青森県では私の住んでいた西日本に比べて圧倒的に少なく、例えば、東日本部落解放研究所の藤沢靖介の研究から、1869-1870の統計によれば、福島県がやや多く被差別部落人口は2016名であるが、青森県は601名、非人20名、岩手県では282名、非人350名となっている。一方、島根県の例を調べた國歳眞臣の研究によれば、島根県では明治初年で4599名、40年で16794名。またこれは少し信じられないが、地域別部落人口の変動(指数)で見ると、明治初年を100とすると中国地方では明治40年で163.2、昭和10年に169.9、昭和42年に167.5と増加、横ばいになっているが、東北地方では明治40年で49.2、昭和10年には21.2、そして昭和42年には0となっている。この調査によれば東北地方ではもはや被差別部落人口がいないことになっている。1946年4月の内閣統計局の調査においても、東北では福島県の部落民数が998名であるが、青森、岩手、宮城、秋田、山形は0名である。一方、私の故郷である兵庫県の場合、128963名と県の人口の4.56%が部落民となっている。こうしたまず人数の違いにより青森県と兵庫県や他県との行政、教育機関での扱いが決定的に違っている。
それではなぜ、浪川先生が部落民のほとんどいない東北、弘前藩での実態を取り上げたのだろうか。それは数の少なさにも起因しているのだが、弘前藩では、こうした被差別の人々が、一種の専門職、革師として、死んだ馬の皮の加工を行っていた。馬の皮は、馬具や鎧兜に必要なもので、武士にとっては欠くことのできないものであった。農民が勝手に剥ぎ取り、加工した馬の革は質が悪く、弘前藩でも専門の職人による加工を必要とした。馬具、鎧兜に使う革は最高級のものを使い、現在でもそうであるが、原皮の取り方、その処理など専門的な工程を経て、バッグや靴に使われる製品となる。専門的な知識、材料が必要となる。弘前藩ではこうした被差別の革師がいなくなった時には、わざわざ他藩から賃金を払い雇っていたことが、この本で示されている。Wikipediaによれば「非人」の仕事として、囚人の世話、死刑囚の処刑、死者の埋葬、死牛馬の処置、街路の清掃、井戸掘り、造園、街の警護となっており、「穢多」の仕事は非人の仕事と重なるが、死牛馬の処理、刑吏、捕吏、番太、山番、水番などであり、これらの仕事は社会活動を支える欠くことができない仕事である。
明治二年弘前絵図を見ても、「人口360人 非人小頭 秋田六郎支配地 牢屋」、「穢多頭 追掛長助 皮細工営業」、非人丁と穢多丁があり、ここでは非人が刑吏、穢多が革細工に従事した。他には「穢多附革細工営業ノ者」、「穢多手 革師ノ者」とあり、禅林街、新寺町、誓願寺の火葬場では「穢多附陰亡」とある。さらに最近、手に入った明治初期の絵図には「皮納所」の記載があり、門と二軒の家の絵が描かれている。この皮納所は場所的には追掛長助支配地の前で、ここに製作された皮製品を収めたと思われる。こうした絵図からも、弘前藩では穢多、非人など被差別の人々は、社会的に必要な専門職として働いていたことがわかる。こうした事実をこの本では、多くの資料を使って丁寧に証明しており、見事である。もちろん馬具、鎧兜など武士と関係する仕事は、明治以降、激減し、皮師としての仕事も減った。また明治中期に第二師団が来ることになり、皮製品の需要も高まったが、この時には非差別の人々以外の人が参入したため、結局は最初に述べたように部落民数そのものが減っていった。同じように刑吏なども国が管轄するようになり、被差別の人々の特権的だった地位もなくなった。
明治時代、珍田捨巳らキリスト教信徒による部落への支援活動があったように、いまだに偏見は残っており、解消への取り組みに真摯にならなければいけないが、歴史的な事実としての弘前藩での被差別の人々の役割を詳細に解明した点では、この本は重要である。
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