2024年5月6日月曜日

細見くんのこと

 



子供の頃、小学4年生の頃だったろうか。友人の細見くんの家に行ったことがある。当時、週刊漫画雑誌の全盛の頃で、最初にマガジンとサンデー、少し遅れてキングの3冊が毎週発行されていた。子供に人気があったのはマガジンであったが、サンデー連載のサブマリン707も読みたかった。一家で2冊の漫画を買うことは許されていなかった。それでうちはマガジン、お前はサンデーを買い、読み終わったら取り替えっこしようと友人と協定を組むこともあった。ただ細見くんだけはクラスで唯一、マガジン、サンデー、さらにキングも購買していた。キング自体はそれほど好きでなかったが、それでも工夫して百万円貯める「フータくん」という藤子不二雄さんの漫画を読みたかった。

 

細見くんの家に行くと、ランドセルを捨てて、玄関前の部屋でサンデーとキングを貪るように読んでいた。ある日、細見くんがうちの父親の勲章を見せてやると言われ、入ったこともない奥の部屋にこっそり忍び込み、勲章を見せてもらった、数個はあっただろうか。細見くんのお父さんは2、3度見たことがあるが、かなり年配の人で、最初はおじいさんかと思った。お母さんとはずいぶん歳は離れていた。細見くんは、うちのおとんは昔、戦争中、将軍だったと漏らしたことがあった。小学生でも戦争ものはよく漫画で読んでいたので、すでにその頃、少将、中将、大将という軍隊の階級は知っていた。将軍というのは映画や雑誌などでは知っていた存在だが、身直に知ったは初めてで、へえと思った。うちの親父も陸軍中尉であったので、親が軍人だっというのは珍しくはなかったし、祖父が将軍、将官であったとしてもおかしくはない。ただ親が将官であるのは驚きで、そのため今でもこのエピソードを覚えている。

 

小学4年生というと、西暦でいうと1966年頃で、終戦後21年経過している。ポツダム昇進で大佐から少将になったとしても、早くて陸軍士官学校の39期、昭和2年(1927)の卒業となる。終戦時の年齢は40歳くらいとなる。通常、少将になるのは大正10年卒(1921)の33期くらいからなので、終戦時、45歳以上、私が細見くんの家に行ったころは66歳頃となる。確かにこのくらいの年齢であったように思える。細見惟雄中将という人物もいるが経歴は違う。当時は、まだまだ親父も含めて太平洋戦争などに従軍していた人は普通にいたというより、大人はほとんど元軍人であった。

 

今になって思うのは、細見くんのお父さんも戦後、かなり苦労したのだろう。うちの母の妹の旦那、叔父さんは戦前、脇町中学校でもトップに近い成績で、陸軍士官学校、さらに陸軍大学校を出た軍人エリートで、最終階級は少佐であった。戦前は皆から憧れ、尊敬もされていたしが、戦後は逆風となり、徳島県脇町で小さなお菓子屋をしていた。また同じ町のおじさんの友人は、これも海軍兵学校卒業のエリートであったが、戦後は牧師をしていた。元軍人といった人々の人生も戦後、大きく変わった。細見くんのお父さんも、うがって考えると、妻子とも空襲などで失い、戦後に細見くんの母親と知り合い、ひっそりと暮らし、歳をとって生まれた我が子を溺愛したのかもしれない。

 

尼崎の繁益先生は、太平洋戦争中にラバウル航空隊で零戦に乗っていたという。戦後、命からがら内地に戻り、歯科大学に入学し、歯科医となって、親父の歯科医院の近くで開業し、親父とも仲が良かった。ラバウル航空隊というと撃墜王の坂井三郎を思い出すが、繁益先生が赴任した頃は、大きな空中戦もなく、ひたすら逃げていたと笑って話していた。親父にしても、昭和16年に招集されて、満州に行き、戦後は、捕虜になってモスクワ南方のマルシャンスク捕虜収容所に収容され、日本の帰ってきたのは昭和23年であったので、7年間、軍人生活をしたことになる。酒巻和雄少尉は、脇町中学校の歴史の中でも最も優秀な生徒であった教師をしていた長谷川の叔父さんが言っていたが、真珠湾攻撃で日本人初めての捕虜となった。

 

歴史的に考えると、明治では日露戦争(明治37年)までは、まだまだ江戸時代、戊辰戦争を経験した人が主力であったろうし、昭和10年頃はまだまだ日清、日露戦争を経験した人が幅を利かせていたのだろう。そして昭和40年頃までは大東亜戦争、太平洋戦争の経験者が普通にいた時代で、そうした意味では、周りに戦争を経験したことが全くない、久しぶりの時代なのだろう。終戦から79年、大坂夏の陣が終了したのが慶長20年(1615)、それから79年というと1694年、元禄時代。今は戦争のない、いい時代なのだろう。


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