2024年6月20日木曜日

弘前市は東北で一番人口密度の高い市だった

 

               戦前の弘前市


弘前商工会議所五十年史(昭和32年)を見ていると、昭和29年の人口調査によれば、弘前市の1平方キロメーター当たりの人口密度は7217人、青森市が2173名、八戸市が1065人に比べてかなり高く、東北では第二位の郡山市の3798名に比べてもダントツの一位であった。さらにこれを超える人口密度は全国でも東京23区、武蔵野市、大阪府の守口市、兵庫県の尼崎市、福岡の戸畑市くらいしかないという。へえと思った。

 

この理由として、合併前の弘前市の面積は人口5万人以上の都市では全国でその狭さは第四位であった。実際、当時の弘前市の面積は9.15平方キロ、青森市は57.02平方キロ、八戸市は101.11平方キロで、八戸市の11分の1である。これは現在、弘前市で策定している都市プランにおける市街地、あるいは旧市内に相当する。現在は、岩木町、相馬村などを合併し、その面積は524.2平方キロ、密度は305人となっている。昭和29年に比べて面積は50倍以上になった。青森市が面積824.6平方キロ、人口密度が317人、八戸市が面積305.6平方キロ、人口密度が700人で、それぞれ昭和29年に比べると15倍、3倍の増加に比べても、弘前市はダントツに面積が拡大した。

 

それでも弘前市の中心地区、市街化区域で言えば、面積は28.3 平方キロで、そこに127420人が住んでいるので、人口密度で言えば4500人くらいになる。中心部人口で言えば、昭和29年に比べて極端には減少していないことになる。さらにいうと、明治時代の弘前の面積は7.5平方キロで、人口は31000人なので、人口密度は4133人となり、ほぼ現在と同じくらいの密度となる。弘前市の中心部、市街化区域の人口密度4500人は、全国の85位くらいの相当し、兵庫県で言えば、西宮市が4840人で77位、芦屋市が5049人で74位となる。昭和29年当時の人口密度、7212人であれば、現在のランキンでは名古屋市の7126名や横浜市の8611名に遜色ない。現在の人口密度の305人は、ランキングの443位で、岩手県の滝沢市の301人、北海道の苫小牧市の297人に近い。つまり人口密度から見ると、昭和29年度は全国的に弘前市の面積はあまりに狭かったが、現在は逆に広い方になる。

 

「弘前商工会議所50周年史」によれば、昭和32年当時の弘前市の利点とし、全国の市町村に比べて、狭い面積に医師数は弘前が294名、青森市が193名、八戸市が103名で、それぞれの割合が3:2:1になっており、医療機関が多いことを挙げている。さらに仏教各派寺院数は、弘前が60、青森市が10、八戸市は20と、まだまだ自慢が続き、映画館数も弘前市には17館もあり、盛岡市の13、秋田市の14に勝っているという。また中心部から放射線状に伸びるバス路線は、その業績が東北地方屈指で、中には一日、40往復という路線もあるという。そして、昼間人口の増加では、弘前市は125%で、これは東京都の京橋の142%あるいは芝120%の中間くらいで赤坂108%より高いと誇っている。また学生数で言えば、人口100人に対する大学生数は、弘前市は2.8名(全国0.4名)、高校生数は8.7名(1.4名)、中学生数は9.1名(5.6名)として学都弘前の自慢が続く。

 

今から考えると、能天気な記載であり、映画館はもはや1軒しかないし、弘前バスは赤字が続き、弘南電鉄も毎年のように廃止すべしとの声が聞こえる。ただ大学数は9校でこれは全国でも16位で、資料はないが、人口あたりの大学生数は全国でもトップクラスであろう。弘前市の特徴として、昭和32年当時の商工会議所では、今でいうコンパクトシティーを挙げているわけであり、逆に人口が減ってきているとはいえ、こうした市の利点、コンパクトシティでなくなっているのは、国、市の政策の問題だけではなく、コンパクトシティという概念そのものの限界があるのかもしれない。弘前のコンパクトシティが崩壊している直接の原因として、まず中心部の地価が高くなって、郊外に宅地開発が進んだこと、さらにそうした住民を対象にした大型商業設備ができたこと、車社会となり、中心部に住む価値が減ったこと、などが挙げられる。一方、中心部の空洞化が始まると、中心部の地価が安くなり、マンションなどが建つようになり、今度は郊外のニュータウンでは住民の平均年齢が上がり、購買力の低下に伴い大型商業設備が撤退、医療設備がなくなるなどの弊害が出てくる。

 

現在、弘前市の旧市街には、映画館が一軒もないし、大型商業設備としては、イトーヨカードー、中三デパート、ヒロロの3つがあるが、イトーヨーカードは9月末で閉店となるし、中三デパートもなくなるのは時間の問題で、ヒロロも長い期間、空き店舗であったが、弘前市のテコ入れで何とか開業したが、空き店舗が増えている。さらにあれだけ人がいた鍛冶町の飲み屋街もほとんど人がいなくなり、土手町も今泉書店、紀伊国屋書店弘前店、弘前中央食品売り場、富田の肉屋、開雲堂、など次々と閉店している。現状では商店街の体をなしていない。幸い病院施設はまだ残っているが、商業施設も含めた娯楽施設がほとんどなくなっている。先日、開雲堂が閉店となり、駆け込み需要で多くの客が並んだ。いつもこれくらいのお客が来ていれば、さすがに閉店はしないだろうと思うが、弘前市民は案外冷たく、閉店するとなってから客がくる。

 

除雪、道路整備、交通、インフラなど、すべての点でコンパクトシティーの方が効率的であり、かなり前から青森市はこうした方針でやっているが成功していない。ヨーロッパでも城郭都市の歴史をもつところでは、コンパクトシティー化がしやすいようである。ある意味、300年以上続いた弘前城下はコンパクトシティーであったわけであり、逆にドーナツ化現象になったのはここ20年ほどである。崩壊した歴史をもう一度、検証した方が良いかもしれない。さらにいうと、コンパクトシティー化と公共交通は表裏一体であり、ヨーロッパの市電、バス路線で黒字のところは少なく、ほとんど公共事業として運営されている。弘前市会議員の中には弘南電鉄の廃止を唱える人もいるようだが、是非ともヨーロッパの公共交通を視察してほしいものだ。



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