2024年6月5日水曜日

大飢餓と共産党



久しぶりに映画「いちご白書」をみた。確か、高校1、2年生頃に神戸三宮のビッグ映劇で見た記憶がある。調べると映画は1970年公開らしいが、公開より少し遅れてビッグ映劇で、2本立てで上映されたのだろう。同じ学生運動を扱ったイタリア映画「ガラスの部屋」と抱き合わせであった。このビッグ映劇というのはJR三宮駅からは歩いて10分ほどの近くなのだが、少し奥まったところにあったので、一般の客というよりは映画好きの人が多く集まるところであった。

 

学生運動の映画であったことから、大学生の姿が多かったような気がするが、内容については全く忘れていた。多分、あまり記憶に残らない映画であったのだろう。ビリーバンバンの有名な曲、“「いちご白書」をもう一度”がヒットしたのは1975年なので、私はすでに大学生であったが、この歌を聴いた時も、映画「いちご白書」が懐かしいといった気持ちも全くなく、「メモリー」にもなっていなかった。

 

それから50年以上経って、先日BS/NHKでこの映画を見てみたが、印象は全く同じで、全然面白くない。主人公や内容があまりにも軽薄すぎる。最後の州兵、警察によるコロンビア大学突入のシーンも感動的というよりは、バカじゃないかという気持ちが先に立つ。あれじゃ土曜日の夜に改造車で轟音をたて、町中を走り回り、警察に捕まる暴走族と変わらない。深読みすれば、この映画は大学生の甘い現実感を嘲笑的に捉えたコメディだったのかもしれない。女の子とセックスできるかもしれないくらいの軽い気持ちで学生運動に入った主人公は、次第に学生運動にのめり込むが、所詮その程度の覚悟で、デート中に黒人グループが現れるだけでビビってしまい、運動に懐疑的になる。最後は、警察に皆、捕まったシーンで映画は終わる。おそらく、ほとんどの学生は、若い時はそんなこともしたなあといったメランコリを抱えて、普通の人生を歩んだのだろう。一時の若者のパッションのようなもので、そんなにセンチになるほどのものではない。

 

私自身、高校生の頃、当時の社会的雰囲気で毛沢東思想にかぶれたこともあったが、その後、文化大革命の幻想が暴露されるとすっかり興味がなくなった。最近では社会主義、共産主義ほど人類のためにならない思想はないと思い始めている。あるネットで人類史上最大の虐殺者の第一位として毛沢東を挙げている。大躍進では2000-5000万人の餓死者、そして文化大革命では数百万から一千万人の犠牲者、計6000万人を殺している。中国人は、日中戦争を起こした日本人を鬼のようにいうが、毛沢東に比べると可愛いものである。そして虐殺者の二番目は、スターリン、この人も人を殺すのが好きで、人民を片っ端から処刑し、またウクライナでは工業化のために数百万人のウクライナ人を餓死させ、ラトビア、リトアニアからの強制移送により二百万人近い犠牲者をうんだ。毛沢東が殺したのが6000万人に対して、スターリンが殺したのは2000万人に、そしてヒトラーがホロコーストで殺したユダヤ人、他民族は1100万人とされている。そして第4位がカンボジアのポル・ポトで人口800万人のカンボジアで300万人を殺したと言われている。

 

毛沢東、スターリン、ポル・ポトは全て、共産主義、社会主義、さらにいうならヒトラーのナチスも国家社会主義ドイツ労働党と名乗っている全体主義社会国家である。共産党の方に言わせると、毛沢東、スターリン、ポルポトは誤った共産主義者で、特殊な例としてあげるし、ナチスは全く正反対の主義と怒るであろう。ただよく考えると人類史上で最大の殺人が、共産主義、社会主義政権で起こったことは、偶然の一致とは言えず、この主義の中にある潜在的な危険性を物語っている。もちろんそれ以外の国でも、第5位はベルギーのレオポルド2世で、彼は200万人のコンゴ人を虐殺し、第6位はトルコのパシャで、200万人のアルメニア人を虐殺したとなっている。ただ共産主義の恐ろしいのは、他国民の虐殺ではなく、自国民を虐殺している点で、これは恐怖でしかない。スターリンによるウクライナ飢餓も毛沢東の大躍進の飢餓も原因は驚くほど似ていて、共産主義ならではの官僚主義が起因する。よく知られているように、大躍進の世界史上最大の飢餓は、地方の官僚が自分の功績を上げようと、書面上で単位面積当たりの米の収穫量を競ったため、不作にもかかわらず数字上では大豊作で、農民から米を収奪したことから基金となった。同様にウクライナ飢饉は、ソ連の重工業化を進める政策のため、外貨が必要となり、官僚は命令に従うため、ウクライナ農民から徹底的に収穫物を収奪して400-1500万人、国民の20%が餓死した。

 

話を最初に戻すと、映画「いちご白書」の学生の部屋には、チェゲバラと毛沢東の写真を飾っていたし、日本でも東大紛争の頃の学生もそうだった。当時の学生からすれば、一種のファッションで、チェゲバラ、毛沢東思想に惹かれていたのであろう。ただ現実論からすれば、1960-70年代においてはベトナム戦争反対の学生運動をするくらいなら、中国の文化大革やポルポト政権への抗議、人民を殺すなと言ったスローガンがより重要なものであり、共産主義と敵対した当時のアメリカ政権、日本政権の判断は正しい。大学生の頃、東北大学にはまだ学生運動の生き残りがいて、世界同時革命などを叫んでいた。当時、彼らと論争したことがあったが、彼らは中国、北朝鮮を理想国として称賛していた。それなら体制側の国立の東北大学などさっさと辞めて中国や北朝鮮に行けと言ったら黙っていた。所詮、映画「いちご白書」と同じ薄い思想なのだろう。よほどポルポト政権下を主題にした「キリングフールド」の方が感動的であった。中国も民主化されたと言っても、未だ大躍進、文化大革命の悲劇を真正面から描いた映画はなく、少なくともこうした恥部をマスコミで自由に扱えるようにならなければ、もう一度、大虐殺が起こる危険性は共産主義、社会主義国家は内在する。中国政府は、日本は先の戦争を反省しろというが、真っ先に反省すべきは中国政府が自国民6000万人を殺したことであり、戦争ではなく、政策で自国民をこれほど殺せるのは、共産主義が持つ全体主義体質によるのだろう。大躍進からすでに60年以上経つし、文化大革命からも50年たつが、いまだに中国政府から犠牲者に対する正式な反省、謝罪、賠償はない。同時に6000万人もの人民が餓死したことを、歴史上、なかったかのように隠し通せるのもすごいことで流石に一党独裁、共産主義国である。


 

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