2024年8月18日日曜日

終戦記念を想う

 



軍人恩給の受給者の数が1000名を切ったというニュースがあった。戦争経験者即、恩給をもらえるものではなく、兵士、下士官で12年以上、准士官以上は13年以上と、ガッチリ軍人として戦った人でないと貰えない。平均年齢は102.2歳という。これは実際に戦場で戦った経験のある人がもはやほとんどいないことを意味する。

 

親父の場合は、昭和16年に学徒として出陣、昭和17年より関東軍として満州勤務、終戦後にロシア国境で捕虜となり、マルシャンスク捕虜収容所に昭和236月まで収容され、軍隊生活は計7年であるが、戦地勤務、捕虜期間が加算されたため、軍人恩給を貰っていた。最終階級が中尉であったので、そこそこ、確か20年前で120万円くらい貰っていた記憶がある。昭和という時代は、莫大な軍人恩給の対象者がいて、国としても財政的にかなり厳しかったであろう。

 

こうしたこともあり、終戦前後のこの時期、本来なら戦争、あるいは平和を主題として各種の番組が制作されていたものだが、もはや戦争を実際に体験した人がほとんどおらず、制作もできない状態となっている。戦争中のことを江戸時代に置き換えると、江戸から明治に変わったのが西暦で言うと1867年、終戦1945年から2024年までがほぼ80年とすると、1867年から80年後というと1947年、昭和22年に相当する。つまり昭和22年当時から江戸時代を振り返るようなもので、もはや歴史の一部分という感覚しかなかろう。

 

月刊「丸」が創刊されたのが昭和23年、そして雑誌記事を元に文庫化した光人社NF文庫が始まったのが1992年、こうしたミリタリー関係の書籍についても、もはや実際に戦闘を経験した人による記述は減ってきており、若手の作者によるオタク系の記事が多くなっている。このミリタリーオタク系の層というのは、少年漫画雑誌で連載されていた「O戦はやと」、「紫電改のタカ」、小松崎茂のイラストに感化された世代で、さらにいうとその後のプラモデルブーム、戦争映画に熱中した世代である。宮崎駿は1942年生まれで、彼もミリタリーオタク、映画「この世界の片隅に」監督の片渕須直は1960年生まれ、彼も飛行機マニア、特に軍機の塗装のオタクであり、映画「シンゴジラ」監督の庵野秀明は1960年生まれ、彼もミリタリーオタクである。逆に親父も含めて実際の戦争経験者にとっては、戦争自体にはあまり関心なく、人にも喋ることはなかった。ラバウル戦闘隊にいた人やロケット戦闘機「秋花」の整備をしていた人にもあったが、敵機と戦ったときはどうだったのか、秋花の整備は難しかったか、など質問してもほとんど喋ってくれない。

 

それでもこの時期になると、まだまだ戦争経験者のインタビューがテレビや新聞で取り上げられる。先日も15歳で予科練に入隊し、戦争末期、特攻兵器、震洋の訓練中に終戦を迎えて老人が、戦争の悲惨さと平和にありがたみを語っていた。それまで特攻というと飛行機であったが、戦争末期にはすでに特攻機自体が消耗し、有名な話としては九十三中間練習機、通称赤トンボで出撃した隊員や、九十式機上作業練習機、白菊で出撃した隊員は、せめてまともな飛行機で特攻させてくれという望みも無視された。こうしたことからモータボートに火薬をつけて敵艦に体当たりする震洋が作られたが、所詮、そんなチャンスもなく、戦果もほとんどない。ただ本土決戦の切り札として、さらに飛行機自体が払拭し、訓練もできないため、多くの若い兵士が操縦の簡単な震洋の訓練を受けた。こうした人々も、すでに94歳、最後の戦争経験者と呼んでもよい。

 

子供の頃、10歳くらいの頃、1966年当時、周りの多くの大人は戦争経験者であった。親父、親類はもちろんのこと、学校の先生から、近所のおじさんまで、普通に戦争経験者だったが、実際、大人たちは戦争のことはほとんど喋らなかった。親父にしろ、そうした話をするのは、おそらく年に一度開かれていた戦友会くらいのもので、私も戦争中の話を聞いたのは、一度、東京に親父、兄と遊びに行き、その節に千葉に住む上官に会いに行った時だけだった。1930年以前に生まれの人と、我々の世代も含めたその後に生まれた人との決定的な差は、戦争という死というものと隣り合わせの経験をしたかどうかといえよう。戊辰戦争は明治元年(1867)、日露戦争は明治37年(1904)なので、この戦争を経験した人は、前者は明治の末、後者は昭和39年、1964年くらいまでは普通にいた。ということは明治以降、戦争経験者がゼロになる初めて時代がこれから来ることになる。良い時代に生きたものとつくづく思う。


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