2025年4月13日日曜日

日本歯科専門医機構、歯科矯正専門医

 




医科の中には眼科、皮膚科、整形外科のようの分野別の専門医制度があり、筆記試験や症例数などにより専門医の資格を取る。同じようなことが歯科でもあり、口腔外科や矯正歯科などの専門医制度がある。元々は各学会で専門医制度を立ち上げたが、国民により信頼される制度として第三者機関、歯科では日本歯科専門医機構が審査を行い、これに合格すれば専門医を名称できる。

 

現在、歯科では口腔外科、歯周病、小児歯科、歯科麻酔、歯科放射線、補綴歯科、矯正歯科、歯科保存の8つの専門医があり、原則的にはこの8分野については、看板やホームページで資格を載せることができる。逆にいえば、これ以外の学会名を冠した名称、例えば矯正歯科学会でいえば、日本矯正歯科学会、認定医というのは原則的にはダメで、日本歯科専門医機構、矯正歯科専門医はOKなのである。現在、矯正歯科専門医の数は201名で、残念ながら青森県にはいない。私は症例審査、筆記試験など全ての試験に合格したもが、日本歯科専門医機構の共通研修というビデオを見ることをしなかったために取れていない。共通研修というのは、まず受講の申し込みをしてから、受講料を銀行振込するのだが、ネットからカードで支払ったと勘違いし、受講できなかった。今年で閉院するので、もういいやと思っていたが、こちらで世話になった先生がこの日本歯科専門医機構の矯正歯科担当の理事で、矯正歯科の専門医が都市部に集中して地方にいないと言っていたので、遅ればせながら再チャレンジして結果待ちの状態である。

 

実際に東北地方の矯正歯科専門医を見てみると、青森県は0、岩手県は2名、秋田県は0、山形県は1名、秋田県は0、宮城県は3名しかいない。大学の教授は研修機関長とて自動的に専門医になるために、現状では東北の開業医で矯正歯科専門医を持つのは4名しかいないことになる。今後、日本矯正歯科学会の認定医が2833名おり、専門医の試験はかっての臨床指導医の試験より簡単となるために、随時増加していくと思われるが、それにしても現状では、特に東北地方では極めて少ない。

 

矯正歯科学会では矯正治療をするなら矯正歯科専門医でしなさいというが、実際、青森県には矯正歯科専門医が一名もいないので、治療できないことになる。それでは認定医というと、弘前市は私を除くと3名、青森市は1名に(引退して子供が継承)、八戸市は2名、他には三沢市に1名、むつ市に1名となっているがこれは間違い。弘前市はまだ恵まれているが、青森市は1名で、木金土曜日の週3日のみの営業なので患者数は限られる。

 

こうした状況では、必然的に専門医のところで矯正治療を受けるのは難しく、近くの一般歯科で矯正治療を受けることになる。そうしたこともあり鹿児島大学病院にいたときは、開業医の矯正歯科治療のレベルを上げる目的で、大学主催のマルチブラケット装置の講習会をしたり、開業医の研修医を増やしたり、あるいは症例相談を受けたりしたが、結局は矯正歯科ではフルタイムでの3年以上の研修は最低限必要で、一般歯科医に一生懸命教えても無理だということになった。30年前まではこうしたマルチブラケット装置の講習会も多く行われたが、月に1回、2年間の講習会をしても、ほとんど実際の臨床に使えない。そのため、最近ではマウスピース矯正の講習会ばかり増えて、マルチブラケット装置に講習会はほとんどなくなった。実際の矯正専門医の治療の主体、90%はマルチブラケット装置による治療なのに、今の若い一般歯科の先生は全くマルチブラケット治療ができず、聞き齧ったマウスピース矯正だけしかせず、結果は以前より酷いことになっている。

 

歯科矯正治療の進歩は、あくまで手技の簡素化、汎用化であり、AIの進歩で誰でも簡単に診断はできそうである。一方、手技としては、例えば、AI診断で“この”上顎前突の患者の治療法は、1。外科矯正を併用した方法、2。小臼歯抜歯、アンカースクリューを併用した方法“となったとしよう。現時点でのAI判断ではマウスピース矯正は無理で、マルチブラケット装置による治療となるが、治療そのものがAIでするのはまだ無理である。個人的には今後もマルチブラケット装置による治療ができない限りまともな矯正治療はできず、AIを用いてどのように教育していくかも重要なこととなろう。残念ながらマウスピース矯正がマルチブラケット矯正治療を凌駕する可能性はかなり少なく、まだまだレベルの高い治療結果を誰にでもできる状況には達しておらず、AIが進歩したとしても今の状況は続きそうである。




2025年4月9日水曜日

丹鶴庵

 








丹頂鶴のホームページより


今の弘前大学医学部病院にあった金木屋呉服店は、江戸、明治時代に繁栄を極め、明治14年に明治天皇の御巡幸の折には、天皇はここに宿泊され、その記念碑がいまだに医学部病院の校内にある。明治天皇がこの呉服店に泊まることが決まると、わざわざ宿泊用の豪華な離れを建築して、準備をした。宿泊所の写真もこの記念碑に残っている。もうとうにこの宿泊所は無くなっていたと思っていたが、どうやら弘前市愛宕山の橋雲寺に移築されているようだ。ネットで調べると今は橋雲寺の護摩堂としてあるようだが、明治時代の宿泊所に比べると、随分と形が違うようだ。暖かくなったら一度、自転車でいってみようと思う。

 

Googleマップで周囲を調べていると、「新岡温泉」というマニアにはたまらない温泉がある。ストリートビューで見ていても、ほぼ民家で、かなり地元民でないと入りにくそうで、いろんなルールがあるのだろう。さらにいくと「丹鶴庵」という名が見える。小さな寺かなあと思ってみると、実はこれ民泊設備で、一棟丸ごと貸し出す宿泊施設である。茅葺の純日本家屋で、室内も和室、自炊するシステムである。周囲には綺麗な庭があり、また宿泊費も非常に安い。大学生ゼミでの利用では6人以上の使用で、一人1500円、6人で9000円という安さらしい。長期に宿泊することも可能で、欧米でよくある田舎の村にしばらく住むような宿泊所である。夫婦2人で5日間の宿泊をすると、一泊目は二人で9000円、二泊目は7200円、三泊目以降は6400円、一週間で41800円、ドル換算で280ドルくらいになる(1ドル150円)。キッチン用品、風呂、寝具も用意されているので、近所のスーパーで食材を買えば、ここで自給できる。弘前に30年住んでいて、こんな宿泊設備があるのを初めて知った。多分、最近話題になっているインバウンドの外国人観光客にもまだ知られていないだろう。イタリアの田舎では、観光客がこうした昔の建物に宿泊させるのが流行っているが、一棟貸しだと一泊十万円以上する。一週間住んでこんなに安い宿泊所はない。

 

このことを毎週会う英語のレッスン仲間で議論したところ、まず弘前に住む人は全く関心がなく、なぜ田舎のこんなに不便なところに宿泊する必要があるのか、できれば豪華な温泉宿で、美味しいものを食べたいという。もちろんそうであろう。では東京の人はどうかというと、弘前駅からのアクセルと食材の購入が大変ではないかという。レンタカーを一週間くらい借りて、弘前市周囲、青森県の観光地を巡るのはいいとして、帰って、スーパーで食材を買って料理し、風呂を炊いて、布団を敷いて寝るのは大変だという。将来、田舎に移住を考えている人はその予行としてはいいかもしれないが、よほどのマニア以外は、こうした施設に泊まるのは躊躇われるのではないかという。さらに外国人観光客はというと、たとえ一週間とはいえ、外国で何から何まで自活するのはかなり難しい、少なくともあれこれ聞ける友人でもいないと厳しいという。また外国人に宿泊させると日本人のようなルールを知らないので、かなり宿泊設備が無茶苦茶にされる可能性も高いという。

結局、一番いいのは、大学生、高校生、あるいは中学生などの学生が利用することである。最近の子供、特に都市に住む子供は、こうした囲炉裏があり、蚊帳があり、周囲が田んぼに囲まれた生活はしたことがなく、大きな体験にらなると思う。引率の先生は大変かもしれないが、みんなで買い物に行って自炊するのは大きな経験になろう。英語の先生は、青森県に来たALTの外国人教師がみんな集まってこうした宿泊施設に泊まるのは楽しそうで、活用できるかもしれないと言う。

 

私の意見としては、管理者あるいは従業員がもう少しここでの生活、具体的にいえば囲炉裏の火を起こし、風呂を炊き、食材の買い出しと料理の手伝い、あるいは布団の敷き方を教えるなど、宿泊にサポートしていくのもアリかと思う。特に外国人観光客は、少し厳しいようだが、物品の破損などについては弁償などの署名をもらうとともに、紹介者がいないと宿泊できないようなシステムもいいかもしれない。体験型の旅行を楽しむ外国人観光客も多く、一棟貸しで、一週間の宿泊料金を30万円くらいにして、その分、体験型の催し、農家の手伝いや郷土料理教室、弘前であれば、ねぷた制作、運行、地元酒場、料理店紹介などいろんな工夫ができよう。

 

泊まったこともないし、行ったこともないところであるが、この「丹鶴庵」は面白そうな施設である。500m離れたところには「新岡温泉」があるし、周囲には小さな神社、羽黒神社、春日神社、愛宕神社、橋雲寺、白山神社、荒神社、十二所神社、稲荷神社、蔵王権現堂などいろいろある。また車がなくてもサイクリングにはいいとこで、岩木山神社や高照神社2、3キロで十分にいける範囲であるし、温泉だって新岡温泉以外にも、3キロ四方でいうと、まずアソベの森いわき荘の日帰り入浴もあるし、三本柳温泉、あたご温泉、桜温泉、百沢温泉など渋めから豪華な温泉が揃っている。歩くと流石に遠いが、自転車なら3キロくらいなら15分くらいでいけるので、JAつがる弘前四季彩館やマックスバリュ岩木店もあるので、食材は何とか購入できる。中古の自転車が2、3台あれば、車なしでも自活はできるし、周囲の渋めの観光地を回れる。

 

東京や海外の人で、この丹鶴庵に4、5日泊まった感想を聞きたいものである。

2025年4月8日火曜日

ウォルマート化を許すな

 




ウォルマート効果というのは、巨大なスーパマーケットができることにより、進出地域から既存の店が一気に消失し、ウォルマートが唯一の店となり、地域の住民にとって生活の全てウォルマートになってしまう現象のことである。概念はすでに20年以上言われているが、最近になってウォルマートの進出を否定する地域が出たり、ウォルマートで買い物をしないという不買運動も活発化している。

 

アメリカの基本的な地方の街は、開拓時代に建設されたもので、鉄道、馬車の駅が中心となり、役所、教会、警察、図書館あるいは新聞社ができ、その周囲に次第に店ができるようになる。この中心街の周囲に住まいが発展し、映画館など、娯楽もここに集まり、街の文化の中心となった。日本でも同じで、弘前市でいうなら、江戸時代は本町が中心であったが、その後、隣の土手町、さらに駅前も繁華街となっていったが、ここ30年、大型スーパーが郊外にできたために、次第に中心街が凋落していった。

 

最近できたロピア弘前店も、完全にウォルマートの手法を取り入れた店で、大量購入をして安く提供する。さらに小分けの手間を省くために、できるだけ分量を多くして売る、コストコなども同じやり方である。鶏もも肉で言うと、大容量6枚で1500円、3枚では1200円という塩梅で、大量購入すればかなりお得というやり方である(数字は違います)。アメリカでは30年前からこうした大容量お得というやり方が浸透し、その結果、ひどい肥満社会となった。安いからといって大量の食品を消費し、太っていく。日本でも地方ではこうした方向になるかもしれない。

 

ウォルマート効果を一言で言うなら、街自体が消滅し、全ての土地が均質化していくことを意味する。つまり中心街、繁華街がないことから、土地の価値がどこでも同じ、土地価格も変わらないことになる。これも弘前の例で言えば、通常駅前というと土地価格は高いものだが、弘前市の駅から500m圏内は坪15万円くらいであるが、5kmくらい離れても価格はそれほど違わない。つまり弘前市全体の土地価格が低い値段で平均化されていく。大きなスーパーができると、周辺の土地が開発され、住宅ができる。一方、同じ世代の人が住むため、20 , 30年後にはそこに住む人々が高齢化し、スーパーも売り上げが伸びず、閉店となる。こうした大型スーパーが郊外にでき、周辺の個人店を全て消滅した挙句、最終的にはこのスーパーもなくなり、買い物難民がでる。

 

一方、東京や大阪の都会では、大型スーパーは土地価格が高く、採算性が低いために、小さなスーパー、あるいは昔ながらの市場が残っているところが多い。またロピアのような鶏もも肉大容量6枚を買う家庭がそもそもいないため、東京に進出しているロピアは小平市と府中市しかない。大型スーパーは全国から大量買い付けを主体とするため、ロピア弘前店でも青森県産が店頭に並ぶことは少ない。青森県は米、野菜、魚、肉などほとんどの食材を自給できるが、その青森人が地元のものが食べられない。30km離れた青森湾や日本海でとれた魚が売っておらず、1800km離れた長崎産の魚が店頭に並び、数キロ離れた畑で採れる野菜が売っておらず、400km離れた福島県産を買うことになる。

 

できれば、その日の朝にとれた魚や野菜を食べたいし、それを使った惣菜やレストランがあっても良いが、ウォルマートができるとそんなことができない。幸い弘前ではロピアができたが、その横には虹のマートという地元食品店街があり、重宝している。ここはほぼ青森県産のものばかりで、年寄り二人ではこの商店街の方が重宝している。ただ幸いなことに、ロピア弘前店が駅前のヨーカドーの跡地に入ってくれたので、郊外に店ができて中心街が空洞化するドーナツ化現象を免れた点であり、今は2階以上の店舗が空いているが、早くここにも店ができてほしい。土手町も含めて、街の中心街を守ることは、その土地の文化を守ることである。




2025年4月3日木曜日

これから開業する先生へ



弘前でも団塊の世代が引退する時代となり、毎年のように閉院する歯科医院が増えている。平均すると年間で3、4件の歯科医院が閉院する一方、新規に2、3件が開業するという感じである。徐々であるが、歯科医院数は減少している。一方、患者についていうと、団塊の世代以降が最も歯の問題がある年齢層で、う蝕、歯周疾患、入れ歯などの問題があり、これらの年代の人、具体的に言えば55歳以降の人が、歯科医院のメインの患者となる。一方、40歳以下の人は、あまりう蝕がなく、歯科医院に行ったことがないという人も多い。特に30歳以下の人について言えば、うちに来ている患者さんに聞いても初めての歯科医院が矯正歯科医院という人が意外に多い。矯正治療に伴う抜歯のために初めて一般歯科医に行ったという患者さんも多い。もちろんう蝕は一本もない。

 

こうした人がこれからを占めるようになると、う蝕はかなり少なく、またう蝕治療技術も進んでいるので、一度治療をするとそれほど悪化せず、結果的に歯科医院に行く回数はかなり低くなる。知人の歯科医に聞くと、十数年前から子供患者が減っていると感じていたが、最近では40歳以下の患者も減って来ているという。ただ歯周疾患については、それほど減少しておらず、平均寿命が100歳になる将来も60歳以上の患者は減ることはないように思える。こうしたこともあり、若者が歯科医院に行くとすると、小さなう蝕か歯並びの治療ということになる。

 

新規開業の先生を見ていると、診療所は今流行りのおしゃれなデザインで、患者ターゲットを完全に若者に向いている。そして口腔内スキャナー、歯科用CT、さらにCADCAMまで、いわゆるフル装備で開業する先生も多い。インビザラインなどをしようとI-TEROという口腔内スキャナーを導入したりするが、はっきり言って患者は来ることはない。今どきの若者は、かなりスマホなどでじっくりと検討するので、新規開業の歯科医院で高い費用を払って矯正治療をする人はいない。同様に、歯科用CTスキャナーを導入しても保険で認められる疾患はかなり少なく、主としてインプラント向けとなる。これも新規開業の先生のところでわざわざする患者は少ない。またCAD/CAMにしても、主として削り出しのインレーやクラウンなどの自費治療で、これもあまり勧めると、あそこの歯科医院は高いという評判となる。

 

要するに、若い先生は歯科経営コンサルタントの助言にそって、こうした設備を揃えて開業する。よく考えれば、最初は基本的な設備で開業し、患者が多くなれば、こうした設備を揃えればいいとわかるのだが。最近のこうした設備はほぼデジタル機器で、通常5−7年で陳腐化した、古くなってしまう。そのためにいかにこの5−7年で使いまくり、早く購入費を回収しなくては儲けとならない。以前と違い、現状での新規開業はあまり多くの患者数は期待できず、こうしたデジタル機器は使われないままゴミとなる。また経営コンサルタントは、過去の成功例(自分のところが関与していない)から、予防を主体とした経営システムを勧めるが、これも大概は失敗している。歯が痛くて歯科医院に行っても、まず多くの検査をして、衛生指導を行ってから治療を始めるという塩梅で、さらに一人15分、30分という予約枠を守るために、新規患者を断りながら経営が苦しいという先生もいる。これは完全に自費中心の歯科モデルをコンサルタントに勧められたからである。

 

これからの新規開業で、まず大事なのは、とにかく働くことである。朝9時から夜7時まで働けと言いたい。受付一名、衛生士一名の二部交代制、いなければワンオペで、半日一回、水曜日くらい休みにして日曜日も働く。そして全ての業務を基本的に一人でし、新規患者の予約は絶対に断らないことも大事である。予約がいっぱいでも何とか押し込み、まず患者の主訴である治療をする。検査などはその後で良い。最初30分かかっていた形成の時間も、人間追い込まれると同じレベルの形成を5分でできるようになる。ともかくいっぱい働くことが治療を早く、うまくなれる。もちろん設備は保険診療ができる最低限のもので良い。場合によっては中古のものを使っても良い。うちの父親は、亡くなるまでの50年間ほぼワンオペで歯科治療をしていたし(受付は母あるいは家政婦さん)、兄もパートの受付一名だけ、私もいまだに受付は家内、それに衛生士一名で治療をしている。兄は中古の歯科ユニットを使ったし、私もタービンなしの一番安い歯科ユニット2台で始めた。開業してどれだけ患者が来るかは、やってみないとわからないので、そのリスクを軽減するためには開業資金を抑えるのが鉄則である。新規開業で受付二名、衛生士三名を募集しているところもあるが、狂気の沙汰である。せいぜい衛生士一人、結婚していていれば受付は奥さんがすれば良い。

 

この状態で、患者が来て、収入が上がるようになってから、次のステップを考える。ある先生はこうした状態で開業し、しばらくするとさらに大きくと三度ステップアップしている。これが正しい経営である。いかに経費を抑えて収入を増やすか、これに尽きる。多くの若手の開業医を見ると、これと全く逆のことをしている。最初からフル装備の開業をして、多くの従業員を雇い、それでいて新規患者を断り、6時には終わる。そして保険治療を安すぎると文句ばかり言う。日本の医療制度は健康保険を主体として成り立っている限り、歯科医はとにかく多くの患者を診て、がむしゃらに働かなくてはいけない。体力勝負であり、若い先生はこれから逃げてはいけない。逆に将来的に自費中心でやるなら、最初から一切、保険治療をしないくらいの覚悟が必要で、それには10年ほど収入的に厳しい状態となる。

 

今にして思うことだが、とにかく歯科医院の経営は自分の借金をできるだけ早く返すことが大事で、そうして初めて自分のペース、診療システムで治療ができる。そのためには、保険を主体とした治療を懸命に取り組む。患者にとっていい歯科医院とは、まず1。治療が早くてうまい(ある程度で良い)、2。予約が取りやすい。3。優しい、4。通いやすいなどであり、1については数をこなせば何とかなるもので、2、3、4についてもワンオペ覚悟なら従業員がいなくなった時間以降も、土曜日、日曜日も診られる。若いうちは体力もあるので、30代で開業するなら、このやり方で10年もすれば借金は返せる。その後は、また借金をしてより大きな医院にしてもいいし、そのままでよりゆっくりした診療システムにしても良い。とにかく歯科経営コンサルタントの言に迷わされないことを忠告したい。楽して儲けようとしてはいけない。


 

2025年4月2日水曜日

どこで矯正治療をしたらいいのか

 





今年いっぱいで閉院するために、新規患者は2年前から、小児患者は4年前からとっておらず、今は通院中の患者のみを見ている。さすがに新規患者をとらないでいると、患者数は次第に減ってきており、昨年の12月からは従来の木曜日に加えて水曜日も休みにしている。以前は1日に15-20人、土曜日は30-40人くらい見ていたが、最近では一日10人程度で、土曜日も少なくなってきている。早く終わる時は5時頃には閉めている。また日によっては、数名しかいないときもあり、収入も急激に減少している。

 

矯正歯科の開業というのは、最初から患者数、収入が多いわけではなく、当院でも最初の1年目の年間新規患者数は100名程度で、そのうち治療に入るのは60名くらいであった。この60人が1ヶ月から2ヶ月おきに来院したとすると、1日の患者数は1から3人くらいになる。暇でしょうがなかった。その後、年間で200人前後の新規患者、100-120人くらいが実際に治療するようになると、次第に患者は溜まっていき、1日の患者数が20名程度になる。一方、10年くらいすると、治療終了患者も多くなり、治療開始患者数と終了患者数が同じになってくる。

 

3、4年前のコロナ期は、矯正歯科ではバブルで、うちでも年間250名、治療開始者も150人以上が2年間続いた。それもほとんどが成人患者だったので、この時は大変だった。平日も30人近く、土曜日は40人を越え、またほとんどの治療はマルチブラケット装置によるものだったので、息つぐ暇もないくらい忙しかった。これほど多いと普通は先生が全ての治療行為をせずに、衛生士の任せるのであるが、私のところはワイヤーの交換、ベンディング、ブラケットの装着、撤去まで全て一人でし、さらに保定装置も含めて全ての矯正装置の技工もした。その頃の患者も最近ではようやく治療を終了し、ここ半年は毎週、4−6人くらいの保定装置を作っていた。診療の合間や診療後に保定装置を作り、朝早くに来て、研磨するという毎日で、これはしばらくは続くであろう。

 

1年前からはホームページも閉鎖したが、それでも週に4、5件の新規患者からの予約電話がある。申し訳ないが、全て断っている。逆に、私の診療所のことや料金についてはネット上では出ないのに、よく調べてきて電話するものだと感心する。普通、歯並びが気になる、矯正治療を受けたいとなると、まずネットで“弘前 矯正歯科 人気”などで検索するだろう。そしてその検索結果から医院のホームページを見て、院長のこと、診療室のこと、さらに料金などを見て、新規患者の予約を入れる。そして実際に来院して、院長からおおまかな治療方針や、料金の説明を受け、よければ次回、検査をして治療に入る。

 

暇なので、実際の患者の身になって、病院を決めようと、コンピューターで探してみると、これがまあ難しい。まずネット検索で上位のところは、必ずしも治療実績の多いところではないこともある。例えば、大阪、東京など大都市では、ほぼ宣伝費に費用を払っているあまり勧めたく歯科医院が並ぶ。矯正歯科で有名な優れた先生のところのホームページは検索の3ページくらいでようやく名前が出る始末である。普通に調べると、まずここが候補にあがることはない。そうかといって口コミサイトも、必ずしも正確でないことも多い。私の診療所もGoogleも口コミでは散々なことが書かれている。まあ嘘が書かれてはいないにしろ、電話応対の対応だけで、星1つはないだろうと思う。ラーメン屋に電話して、店にも寄らず、食べもしないで、電話応対だけでその店の評価を1にするのはおかしい。

 

結局は、これだけ情報が溢れていても、実際に治療を受けようと思うのは、知人や友人からの口コミで、案外、アナログな手法で情報収集している場合が多い。個人的には、かかりつけの歯科医がいて、その先生が信頼おけるなら、その先生に相談して、いい矯正歯科医院を紹介してもらうのが良い。子供の早期治療なら一般歯科のところ治療してもらうのもいいかもしれないが、マルチブラケット装置を使った本格的矯正治療は、やはり矯正歯科専門医で診てもらった方が良い。できれば院長の経歴を見て、大学病院で矯正歯科の専門教育を受けているか、認定医、専門医の資格を持つかを調べてほしい。今時は周囲に矯正治療をしていたという人はたくさんおり、矯正治療をしたいとあちこちで話題にすれば、おすすめの歯科医院を紹介してもらえるだろう。




2025年3月29日土曜日

2回目の海外旅行

 

広州のサッカー場


昆明 バスを降りると


北京の天壇公園 今は派手


大学5年生の時にインド、ネパールに行ったが、2回目の海外旅行は中国であった。確か1980年(昭和55年)である。日中国交正常化は1972年、当時ようやく一部の地域で外国人観光客の受け入れを認めた。当時は、自由な個人旅行は全く認められず、中国政府の正式な許可を得て、日中友好団という形式での団体旅行のみ許可された。それまでずっと外国人が入れなかった国に行くことができるようになった。

 

高校の時には、毛沢東の思想に共鳴したものの、大学に入ると、大躍進、文化大革命の悲劇を知るようになり、実際に中国に行って文化大革命後の中国の姿を見たいと思うようになった。ちょうど旅行会社で、新たに改革開放で外国人が訪れることができるようになった昆明が含まれるツアーがあったので、これに参加することにした。日本から香港、そこからは鉄道で、国境を越えて広州、そして飛行機で石林、昆明に行き、そして北京に行くという一週間くらいのコースであった。初めて成田空港を使った記憶がある。前夜、友人の中林くんと飲み、見送りを受けて後、上野から成田に行く、夜の便で香港に行った。最初は日本人の団体旅行だと思っていたが、インターナショナルスクールの高校生20人くらいを交えた団体であった。日本人は若者、年配の方がそれぞれ五名ずつの10人くらいであった。

 

広州では、動物園で初めてパンダを見て、特別な計らいで広州対北京のサッカーの試合の一部を見せてもらった。すり鉢の競技場で、歓声の地鳴りに驚いた。通過は外国人用の兌換券がちょうど発行された頃で、確か通常の人民の持つ赤色のお札と、外国人の持つ青色のお札があり、普通の店ではこの青色のお札は使えず、外国人用の店だけで使用できた。ここは物資が豊富であり、中国人からすれば、この兌換券は人気があった。

 

広州では、博物館にあちこちに文化大革命の影響があり、掛け軸などはだいぶ破れた状態で公開されていた。その後、石林から崑明に行ったが、ここは初めて外国人に解放されたところなのか、観光バスから降りるたびに多くの人々に囲まれ、まるでスターになった気分であった。宿泊していたホテルにも押しかけ、日本語を習っているなど昆明の人が訪ねてくるが、同乗する公安の人が追い返していた。食事は朝から豪華な中華料理であったが、意外なほど淡白な味で、いわゆる家庭的な料理であった。まだ外国人に対する感覚がなく、あくまで解放前の高級役人向けの味なので、その前に食べた香港の料理に比べて洗練されていない。

 

その後、北京では万里の長城、明の十三陵、紫禁城を観光したが、ほとんど中国人の観光客がおらず、空いていた。天檀公園や頤和園近くの北京ダッグなどを食べたりした。当時の中国は、ようやく文化大革命が終了したものの、国としては貧乏で、多くの中国人は人民服を着ていた。今は全く想像できないが、繁華街の王府井も平屋の店もあったりして、昔ながらの店が多かった。

 

その後、中国に行くことはないが、テレビやYou-tubeで見る限り、これほど短期間で大きく変貌した国もなかろう。

 





2025年3月19日水曜日

初めての海外旅行


 


タージ・レイクパレスホテル










ジャイマハールホテル(ジャイプール)













私が初めて海外旅行をしたのは大学1年生の夏休みであった。1975年、昭和50年である。高校2、3年生のころ、家庭教師をしていた松谷徳八先生(以前のブログでも紹介した)がインドに旅行するので、一緒に行かないかと誘われた。インドは汚い、怖いというイメージがあったので、最初はあまり乗り気でなかったが、今回の旅行は豪華旅行で、各地の最高級ホテルを泊まるという。インドの物価は日本の1/3くらいなので、日本では泊まれないような高級ホテルに泊まれる。また松谷さんは何度もインド旅行しており、今回は友人と私も入れて三人で旅行するというので、思い切ってインド旅行することになった。

 

当時は団体割引で航空券は半額になったので、20人くらいの学生のグループがアリタリア航空に乗り、1ヶ月後のそこに集合してまた団体で帰るというツアーであった。1ヶ月間の全くフリー旅行であった。飛行機の隣の席には早稲田の学生がいて、すぐに仲良くなった。しばらくすると「あのスチュアーデス、昔俺が騙された人に似ている」という、何度がチェックして、向こうも見ないふりをしていたが、ついに「◯◯さんですか」というと2年前に彼が何かの詐欺で騙された人だったのが判明した。そのため、お詫びの印とてエコノミ席なので、飲みものやお菓子、飛行機会社のグッズなどいろんなものを持ってきてくれて助かった。

 

デリーに着くと、次の日にはアグラに電車で行き、タジマハールを見学したが、ちょうどホーリ祭りで、人力車に乗っている我々観光客に容赦なく、色付きの液体や粉を投げらレ、かなり腹がたった。タージマハールを見学後に、その向かいにある茶色の古い宮殿があり、あまりに暑いのと疲れで、三人して日陰で1時間ほど寝ていると、起きると多くのインド人に囲まれて笑われていた。ここでは古い細密画、ミニアチュール画を売る商人と親しくなり、その小さな店に行き、100枚ほどの細密画を見せられた。いずれも100年以上前のものと言っていたが、これは新しい、これは古いと選別していくと次第にそうだ、これは新しい、これは古いと言い出し、何度が初めから見ていくと、ほとんどが新しいものとバレてしまった。最後に残ったのは2枚で、これを買おうと思ったが高いのでやめた。

 

アグラの後はその西にあるジャイプールに行った。ここはマハラジャのホテルというジャイマハールホテルに泊まった。インド像に乗ったりもした。今は本当のマハラジャが住んでいたランバーグホテルというところが最高級ホテルだが、当時はまだ一部しかホテルをしていなかったように思える。さらに電車でウダイプールのタージ・レイクパレスホテルに行った。ここは湖に浮かぶホテルで、007のロケに使われたり、エリザベス女王が訪れたホテルとして有名である。ホテルまでは船でいく。ここは旅行のハイライトとしてかなり広いスイーツの部屋に泊まった。便所は全部大理石でできた6畳ほどの広さの部屋にポツンと便器が置かれていた。やたらに広い部屋で、ブランコもあって、そこでゆらゆら揺れながら湖面を見ることができる。どの部屋に泊まったかは忘れたが、調べるとブランコのある部屋はグランドロイヤルスイーツのようだ。今は一泊50万円くらいするようだが、1975年の頃は三人、百ドル(3万円)くらいで、その安さにびっくりした記憶がある。

 

その後、飛行機だったと思うが南部のエローラ石窟を見た後、南部のバラナシに行き、そこでガンジス河の沐浴、火葬、寺院などを見学した。そこからネパールのカトマンズに飛び、数日滞在してから飛行機でルクラへ、そしてトレッキングでナムチャバザール、そして世界で最も高いところにあるホテル、エベレストビューホテルに泊まった。そこからは再び、デリーに戻り、当初はカシミール地方の避暑地、スリナガルーの船上ホテルに泊まる予定だったが、交通手段がなく、フランスの建築家、コルビジェの建物で有名なチャンディガールにいき、またデリーに戻って、日本に帰国した。ほぼ30日の旅行であったが、内容の濃い旅であった。最初の海外旅行にしてはハードなものであった。当時、デリーで最高のホテル、アショカホテルで2日連続、フランス料理を食べたが、一人三千円くらいで、それ以降、日本のどんな高級レストランもそれほどビビることもなくなった。次の年には外国人に解禁されたばかりの中国(香港、広州、昆明、北京)に旅行したが、若い頃の旅行は、良い経験として今でもはっきり覚えている。






 
インド土産のパシュミナ



2025年3月16日日曜日

老化と物欲

 




皆、歳をとるにつれて欲がなくなるという。もちろん性欲など真っ先になくなるし、金銭欲、さらに何か欲しいという物欲や美味しいものを食べたいという食欲もなくなってしまう。若い時は、おしゃれに興味があって、貯金をしてまで高い服を買ったが、今は下手をすると一年を通じてほとんど服を買わないと話す知人もいる。またある友人は、奥さんがイトーヨーカ堂などで適当にセーター、シャツ、ズボンを買って、それをいつも着ている。こうした人が意外に多い。食事についても、高級フランス料理よりは吉野家の牛丼の方が良いという人もいて、例えば京都に観光に行っても、別に京都ならではの料理を食べようとせず、駅前のマクドナルドでいいという。他の人から見るとケチと思われるかもしれないが、本人は美味しいものを食べたいと思わないだけである。

 

歳をとると欲求は自然に少なくなるもので、逆に無くさないようにするのは努力を要する。比較的簡単な方法は、継続することで、例えば、昔からある作家の初版本を集める趣味があったとしよう。全国のあちこちの古書店を周り、20年目にようやく探し当てたということもあろう。また子供の頃から天体観測が好きで、最高級の望遠鏡を買うということもあろう。逆にそうした趣味もなく、歳をとってから、新たな趣味、あるいはそれに伴う購買欲が出るだろうか。

 

購買欲については、男女とも若い頃に買えなかったものを買うということはありそうだが、これも50歳頃までに実現しているはずで、老齢になってからではなさそうである。子供の頃に欲しかったおもちゃがあったとしよう。もし本当に欲しかったなら、70歳になるまでに、とっくに買っていただろう。オーディオ、楽器、自転車、バッグ、服、時計など、こうした物でも、若い時に興味がなく、70歳になってから急にハマって欲しくなるようなことは少ない。食欲についても、同じことで、老人になって急にグルメになることはなく、昔からグルメの人が継続しているだけである。

 

そう考えると、物欲の多くは、老人になって、減少していくが、若い頃に物欲が強かった人がかろうじて継続している場合が多く、若い頃から物欲が少ない人が老人になって急に物欲が増加することはない。私の場合は、若い頃から愛読書がポパイという物欲が強い人で、最近もスティーブ・ジョブスも履いた991も買ってしまった。高価なスニーカーである。5000円の靴に比べてどれほど優れているかというと、はっきりいって値段差ほどの違いはなく、単に雑誌やyoutubeですごいという評判を信じているだけである。高価な服、高価な靴、あるいは高価な料理は、本来の価値以上の何らかのこだわりが価格を決めているようで、そこに思い入れがないと買わない。例えばミシェランの三つ星レストランでも、吉野家の牛丼が好きという人からすれば、それほどうまいとは思わないし、合理的に考えれば、吉野家の牛丼普通盛り468VS フランス料理のジェエルロブション60000円のディナー、120倍以上の価値があるかということになる。合理的な考え、栄養があり、お腹がいっぱいになり、さらにおいしければいいという人類の共通の考えからすれば、60000円のディナーは話にならない。同様にシャネルの50万円のブラウスとユニクロの1500円のブラウス、弘前の町を歩いていても誰も価格差には気づかない。このロブションの料理、シャネルのブラウスを食べる、買う心理がむしろ異常なのかもしれない。

 

老人になって増加する唯一の欲といえば、それは健康欲と言っても良いものかもしれない。全てのお宝を保有する始皇帝が最後に望んだのが不老不死の薬であり、老人は健康になるためのものには金を惜しまない。定期的に老人を集めて健康食品を売っている一種の催眠商法があるが、会場はいつも老人で盛況である。以前、業者は高額な布団などを売っていたが、今は1-2万円の健康食品などを継続的に売っていて、人気がある。また80歳になって綺麗になったという化粧品の宣伝もテレビでよく見るが、老化防止を謳うものも人気が高い。老人になっても、歳をとりたくない、健康でいたいというのが、最後の欲なのかもしれないが、老いるのは自然の摂理であり、あまりに寂しい。若い頃から何でもいいので物欲を貯め、老人になっても継続していきたいものである。この場合の欲というのは好奇心というものに近い。新しいもの、便利なものが出たら買おうというのは好奇心そのものである。


2025年3月13日木曜日

幸せな家族

 



最近、幸せな家族とはなんだろうかとふと思う。両親が仲良く、子供も素直で、親孝行で、側からみても典型的な幸せな家庭がある。子供達は親の愛情に恵まれ、何一つ不自由なことはない。ところがこうした家庭では、あまりにも環境がよすぎて、その変化を求めない。子供が大学に入る場合も、家から通学できるところを親も子も希望するし、結婚して家をでることも望まないために、なかなか結婚できない。赤の他人と一緒に生活しても、親との今までの生活以上の幸せがないように思える。親も子供のいない日常生活はありえないと考え、結婚せずにいつまでも家にいてほしいと願う。そして両親と子供は、そのまま老いる。

 

昭和50年ころまでは、子供はいずれ結婚するという前提があり、女性であれば、23、4歳ころになれば、結婚するとされていた。そのため、親は何とか子供を結婚させようと躍起になり、あちこちの知人や親類に頼み、結婚相手を探した。親子関係が非常に緊密で、お互いずっと家にいてほしい、いたいと思う親子もいただろうが、それ以上に結婚せずに家にいることが許されない社会であった。結婚当初は親子ともさびしく思うが、家庭を持ち、子供ができると、そうした関係に次第に慣れていった。小津安二郎の映画の世界である。

 

ところが平成になると、結婚しない人が多くなり、結婚しないことに対する世間の批判も少なくなってきた。韓国映画やドラマでは美男美女が大恋愛の末に結婚する。ところがこれはあくまで映画であり、ドラマであり、実際の社会では、そんなに大恋愛はないし、できない若者も多い。現実に起こらないことを映画やドラマの中で夢見ているのだ。それではそうした若者はどうなるかというと、結婚もしないまま楽な実家にいることになる。周りを見渡しても結婚しないで、実家に親と一緒にいるところが本当に多い。それほど珍しい事象ではなく、もはや普通になってきている。

 

そこそこの給料をもらい、実家では部屋もあるし、料理は親が作ってくれる。休みには独身の友達と飲みに行ったり、旅行に行ったり、推しの歌手のコンサートに行く。知らない間に30歳をすぎ、40歳をすぎ、そして50歳、親も高齢となり、少しずつ世話が掛かるようになる。こうした家は多い。昔は、男女とも30歳までに結婚しろといったことが義務のようであった。結婚しない子供がいれば、親は近所、親類にみっともないので、何とか見合いでくっつけようとした。場合によっては結婚相手の顔も知らないまま結婚することもあった。少なくとも江戸時代から昭和50年頃まではこうした状況であった。そこには暴力的な夫に苦しむ妻の悲劇もあったろう。ただ江戸時代で言えば、今でいう離婚は普通であり、子供ができないと実家に追い返されることがある一方、旦那が嫌だと理由で実家に帰る妻もいた。単純に男尊女卑のものではなく、実家に帰ってきた女の人もまた良縁を求めて結婚した。別れ、結婚するというはそれほど恥ずかしいことでなかった。

 

日本でも、出生率の低下が大きな問題となっていて、それに対する予算、給食無料、保育園、高校授業料無償化などを含める莫大な費用がかかっている。ただ出生率を議論する前提として、婚姻率(事実婚も含む)を高めなくてはいけない。そのためには親子関係の見直し、高校卒業したら、一人で暮らす、親に頼らない生き方を選ぶ雰囲気作りも必要かもしれない。少なくとも就職するなら、実家を出ていくのが普通になり、彼女、彼氏と一緒に生活するのも自由な風潮が必要であろう。結婚制度、さらにいうと男女がカップルになるのは、単に生殖という観点だけでなく、太古の歴史から、合理的な仕組みであり、あくまで結婚、カップルになるのはいいという風潮を強くプロパガンダすべきである。そのためには、同棲、あるいは離婚、再婚に寛容な社会を目指すべきであろう。

 


2025年3月12日水曜日

今年の雪は異常である 3

 




冬用の下着といえば、まずユニクロのヒートテックを思い浮かぶ人が多いだろう。他にも各社で同じような機能的下着が販売され、暖かい下着として冬場は重宝している。ところが弘前のような雪の多いところでは、大雪の日は1日に何度も雪かきをすることになり、その度に大量の汗をかく。ところがヒートテックでは吸汗速乾を謳っているが、実際はそうではなく汗が下着に染み込んで、汗冷えする。場合によっては風邪になることもあり、雪かきが終わると下着を脱ぎ、タオルで体を拭いてから新しい下着を着るようにしている。

 

これが1日に3回ともなると、それだけ洗濯が増えることになるため、何とかいい方法はないかとここ数年試している。結論からすると、これは冬の山登りの衣服を参考にすればよく、冬の山登りは、シャベリングなどはかなりハードな作業で汗をかく一方、平地の歩行やテント内では汗はほとんどかかず、濡れた下着のままでは汗冷えして不快な状況となる、そのため、激しい運動をして汗をかく場合はすぐに乾く機能が強く求められる。

 

いろんな機能的な下着を試したが、汗冷えを確実に減らす下着としては、ミレーのドライミック メッシュ シャツが最も優れている。これは太い化繊でメッシュ状に編まれた下着で、厚みもあるためにそこに空気が入るため、汗はそのまま外に出る一方、体温の暖かい空気はその層にとどまるために、全く汗冷えはなく、冬場の下着としては最高である。ただ大きな欠点は、カッコが悪く、もしこの下着を着て救急車で運ばれると、それこそ女性用下着を着た時と同じくらい恥ずかしい。特に私のような太った人ではボンレスハム状態で本当にみっともない。

 

他の下着としては、パタゴニアの夏用の下着、キャプリーン・クール・ライトウエイトの速乾性がすごく、この上にもう一枚の下着、キャプリーン・サイマルウエイトのコンビは暖かくて、速乾性、吸汗性も高く、冬用の衣料としては優れている。雪かきとの時は、このコンビにパタゴニアのR2あるいはアークテリクスのカイヤナイトというフリースジャケットも良い。雪かきをするとすぐに暖かくなるので、アウタシェルはモンペルのゴアテックスのジャケットかアークテリックスのベータージャケットを着ている。

 

今年は弘前も観測史上最高の積雪量であったが、ハイガーの電動除雪機を買ったおかげでだいぶ助かった。ホンダやヤマハのガソリン除雪車は強力であるが、かなり大掛かりで、重くて、操作も複雑、さらに結構メンテナンス、修理も必要だと聞いた。そうかといって安い電動除雪機は非力で弘前の雪には通用しないと考えていた。そのためずっと雪かきといえば、スコップとシャベルを使った手作業であった。去年、妻が雪かきのしすぎで疲労骨折し、私も病気をして雪かきがきつくなったので、ダメもとで、ハイガー社の電動除雪機を購入した。確か8万円くらいで決して安いものではなく、ダメ元という値段ではない。

 

実際使ってみると、いろんな欠点がある。まず自動走行でないために、除雪機を前に押し出す力がいる。重い雪、積雪が多いと本当に力がいり、汗みどろになる。ただ別売りのソリを買うと、これはスーと滑り、力がかからない。40cm以上の雪になると除雪できず、上半分をまず飛ばしてから、下半分を飛ばす必要がある。そのため、大量の雪が降ると予想される場合は、例えば、夜の9時頃、20cmくらい雪の時にまず除雪し、朝の6時にまた20cmの雪を除雪するように2回にわけると問題ない。ただ電動除雪機で除雪できないほど夜中に雪が降ったのは1回で、今年のように異常な大雪でなければ、通常の年は問題ないと思う。

 

弘前のような雪の多いところでも、夜中に30cm以上降るときはあまりなく、ほとんど場合はこのハイガーの電動除雪機で何とかなった。これまで1時間かかっていた除雪作業が半分になったので、これですでに価値があったと思う。それに掃除機でゴミを吸い取るような快感があり、隣の家の駐車場の除雪もやってきた。ただ、やはり腹が立つのは、雪があまり積もっていないのに、除雪作業に家の前に大量に硬い雪の塊を置かれることである。この場合は、電動除雪機は全く使えず全て手作業となる。これが今年の冬で一番きつかった。


2025年3月6日木曜日

私の恩師

 




私には、二人の恩師がいる。一人は鹿児島大学歯学部名誉教授の伊藤学而先生である。鹿児島大学歯学部矯正歯科講座で8年間お世話になった。私自身、多くの教授と知己があるが、中でも伊藤先生は飛び切りの教授であった。そのため日本矯正歯科学会長にも選ばれ、日本学士院会員にも選ばれた。地方の大学から学会長や学士院会員に選ばれることは少ない。

 

伊藤先生は、よく言われたことで今でも実践しているのは

1.仕事は早く終わらせ、次に回す

何か頼まれたりした場合、つい面倒で先送りすることがある。結局はしないといけない仕事なので、どんどん溜まっていく。さらに仕事が溜まっていくと忘れてしまう。そのため仕事があるとできるだけ早く終えて、次の人に回すようにしている。例えば、メールでの問いわせがあると、簡単でもいいのですぐに返事をする。大抵の場合はこれで終わるが、もう少し時間のかかる仕事でも、できるだけ急いで一週間以内に返事して終了するようにしている。一流企業の会社員はこうしたことに慣れているが、一番ひどいのは学者で、彼らは2、3週間くらいしてから返事をするのが普通と思っている人が多い。かなり長文の資料や著書を送っても、全く返事すらない学者が多い。

2.70%でいい

どんなことでも100%が良いということは少ない。伊藤先生によれば、多少問題があっても70%がよければやれという。実際に、医院経営をしていても、ごく少数者だが、お金を払わないままとんずらする患者がいる。ただこうした患者を基準に規則を作ってしまうと、ほとんどの患者には面倒なシステムとなる。100%を目指すのではなく、70%を目指す方が、楽だし、無理がない。生き方もそうである。

 

もう一人の恩師は、高校生の時に家庭教師をしてもらった、元龍谷大学准教授の松谷徳八先生である。

1.本を読め、映画を見ろ、そして旅行をしろ

勉強も大切であるが、学生時代にすべきことは、本をたくさん読み、映画もたくさん見て、そして一人で旅行しろ、その中でいろんな人物に出会い、また人生を経験する。確かに人生は一回きりであるが、本や映画の中で他人の人生を追体験することができるし、一人で旅行することで、その土地、海外の人々と交流できることは、社会人になった時の大きな財産となる。私の高校生の時に沖永良部島への旅行、大学生になってからにインド、中国の旅行は大きな影響を受けた。

2.とにかく行動せよ

昔、夏休み終わる頃に、突如、松谷先生から今から一人で旅行しろと言われた。もうすぐ学校が始まるというと、なぜ学校が始まるから旅行にいけないのだ、学校を2、3日休んでも何か問題があるのかと言われる。結局は面倒くさい、一人で旅行するのが怖いというのが実感で嫌がっていただけである。最後はお袋も行けというので、一人で神戸から船に乗って沖永良部、奄美に4、5日行ってきた。学校は2日休んだ。何かをやるときは結構勇気がいるが、実際に行動に移すとそんなにたいしたことがないことが多く、むしろ自分の中で行動に移さない心理的葛藤の方が強い。いまだに“とにかく行動せよ”というのは難しいことであるが、以前に比べると経験が多くなると行動する敷居は低くなる。そして“忙しいから”と答えることはできるだけしないようにしている。世の中、忙しいと言っても大統領や首相ほど忙しいことはないだろうし、忙しいという人で、本当に忙しい人はいない。本当に忙しい人こそ、必要なことであれば、何とか時間を作るものである。

 



2025年3月5日水曜日

トランプ政権と大アジア主義

 


アメリカのトランプ大統領は、やり放題である。グリーンランド、パナマ運河のアメリカ領、ウクライナの休戦、資源の譲渡、メキシコ、カナダ、中国への関税などなどである。

 

それに対して世界では、報復関税などの対抗手段をとっているが、ほとんど効果がなく、改めてアメリカの巨大さ、強さを思い知った。ウクライナ大統領への恫喝など見ると、かって日本がアメリカから通告されたハルノートを思い出す。太平洋戦争に至るまで、日米間は決してうまくいってはいなかったが、お互い何とか譲歩しながらやってきた。1941年もハルノートが出される前までは何とか交渉しようという意思があったが、日本にはとても飲み込めな条件を出して、日本は開戦を決意した。

 

こうした力で押し込めようとするのがアメリカのやり方であり、明治維新後、日本は中国(日清戦争)、ロシア(日露戦争)、アメリカ(太平洋戦争)など、大国と戦争してきたが、アメリカは太平洋戦争後、どこと戦争したかというと、北朝鮮(朝鮮戦争)、ベトナム戦争(ベトナム)、イラク(湾岸戦争)、アフガニスタン、他にはリビア、シリア、ソマリアなどいずれも圧倒的に軍事力が劣る国と戦争してきた。弱いものいじめである。太平洋戦争前も見ても、インディアン戦争、テキサス戦争(メキシコ)、米西戦争(スペイン)、米比戦争(フィリピン)、バナナ戦争(キューバ、ハイチ)など、弱小国に軍事的な介入をしており、まともな戦争といえば、第一世界大戦と第二次世界大戦くらいである。これも途中参戦である。つまり基本的には絶対に勝つ戦争しかしないし、何かで紛糾すれば武力で解決するのがアメリカの基本的な考えである。こうした前提で、トランプ政権のアメリカを見ると、アメリカの原点に帰ったと言ってよく、もし台湾問題が起こっても、中国との戦争は決してしないし、さらに日本への侵攻、流石に米軍基地への攻撃があれば、自動的に反撃するものの、最終的は見捨てるのははっきりしている。

 

あくまでブログ上の空想である。ならばアメリカに対抗する方法と言えば、まず日本が再軍備化することであろう。これまでのアメリカが決して許さない、空母、原子力潜水艦、核兵器の開発、所有である。そして反米国国が結集して、アメリカと軍事的に対抗できる力を持つ。おそらくは中国が主導し、これに日本がくわわることで、ヨーロッパ、アジア、アフリカ、南アメリカ、中近東などイスラエルとロシアを除く国の結集ができよう。それだけアメリカは嫌われている。同時にアメリカ軍の日本からの撤退を要求する。日本を守るなら、駐日米軍基地も必要であるが、日本の防衛もしないなら、日本にある米軍基地は必要ない。日米安保条約の破棄である。トランプ大統領自身も、過去に安保条約の破棄を漏らしている。究極の大アジア主義としては、「キリスト教国は仏外の外道国の悪国指定」とし、東洋の王道VS西洋の覇道に勝利するという石原莞爾の最終戦争論に行き着く。さすがにこれは極端であるが、それでも空母「かが」のように、なし崩し式に輸送船から空母建造に向かったプロセスで、三菱重工が開発中のマイクロ原発を使った原子力潜水艦は建造できそうである。また核兵器については、すでに固形ロケット、イプシロンを持っており、1.2トンの核兵器を地球上のどこにも投下でき、広島型、長崎型の原爆重量でも全く問題ない。開発が難しい核兵器の小型化も必要ない。また小型化が完成すれば、現在開発中のブロック2B、極超音速ミサイルに搭載でき、射程3000kmを超える迎撃が困難な中距離ミサイルとなる。もちろん中国、北京も射程圏内である。

 

安保条約破棄に向かったこうした動きは誰かの意思が働いているのか、着々と進められており、安倍政権以降、平和憲法というくびきが外れたようである。トランプ政権は、アメリカ中心主義、モンロー主義に戻ろうとしているのか、世界の警察という役割を拒否している。結果として各国は警察に頼れないのであれば、自ら武装化することになり、各地での戦乱、あるいはアメリカ国内でもテロが多発していくだろう。全く困った人である。あと4年の辛抱であるが、プーチンのように憲法を変えて居座る可能性もある。


2025年3月2日日曜日

空中消火飛行艇

 




アメリカ西部での大規模な森林火災がようやく落ち着いてきたと思うと、日本でも三陸地域で森林火災が頻発している。近年、世界各国で地球温暖化のよるものか大規模な森林火災が発生し、それがまた大量のCO2放出に繋がっている。

 

森林火災の消火方法については陸上からの消防車による消火では、水源確保が難しく、アメリカ西部、ロスの場合は、大量の消火用の飛行機が使われていた。多くは旅客機を改良したもので、ニュースを見る限りさまざまな機種が使われ、それも民間の会社のもののようだ。国あるいは州がそうした空中消火専門の会社と契約して消火作業をしているのだろう。日本の岩手県、大船度の森林火災では自衛隊のヘリコプーを使って消火を行っていたが、いつも思うのは、日本が誇る飛行艇US-2を使った消火はできないかということである。

 

US-2は、新明和が1967年に開発したUS-1の後継機で、世界でも最も優れた飛行艇として有名で、これまでも多くの救難運用を行ってきた。この飛行艇を用いて山林火災などの消火活動に用いようとする試みがあったが、効果は抜群との認定を受けながら、費用効果比が低いために見送られてきた。元々、一機100億円くらいであったが、最近では物価高騰により一機220億円、維持費が年間20億円という。さらに機材提供の三菱重工、川崎重工が供給を撤退したため、生産も不可能となっている。

 

今回の大船度の森林火災では、陸上自衛隊の大型ヘリ、CH47が使われたが、この機体の価格が176億円で、機体価格としてはUS-2よりはやや安いが、バケットによる水量は5トン、それに対してUS-2は一度に15トン以上の水を放出でき、さらに基地に戻らず、近くの海、湖で給水ができるという利点を持つ。もちろんCH47の主任務は輸送であり、消火活動はバケットを使った利用法の一つで、US-2より汎用性の高いことはいうまでもない。

 

それでも森林火災以外に、近年でも能登地震の際の火災など、天然災害に伴う大規模な火災が発生し、陸路により消火活動ができない事象も増えてきており、こうした消火専門の飛行艇の活躍の場は多いのではないだろうか。さらにカナダ、アメリカ、オーストラリアなど世界を見渡せば、大規模な森林火災が頻繁に起こるところがあり、消火用飛行艇の需要があり、生産数が増えれば、価格も安くなる。と同時に、戦前から続く、日本の飛行艇の技術を継承できる。

 

US-2の航続距離は4700kmで周辺を海で囲まれた日本では、どのような場所でも給水は可能で、さらに言えば琵琶湖などの大きな湖も給水箇所として使用できる。もちろん消火方法などはまだまだ改良の余地はあろうが、地震などのよる火災などで早急に消火ができるなら、それによる人命救助も増えるだろう。さらにフィリッピンなどで給油すれば、ほぼ東南アジア全体をカバーでき、そこで起こった災害、山火事などの消火活動に活用できる。


 


2025年2月26日水曜日

博物館、美術館への寄贈

 


徳島県立美術館の修造作品数が1万点を超えるというニュースがあった。開館当初は購入による作品収集も多かったが、最近は作品を購入する予算も少なく、年間の収集点数も1-3点にとどまっている。それに反して、美術館による積極的な調査研究、収集活動が次第に効果を及ぼし、最近では市民による寄贈も多くなってきて、2023年度では359点の寄贈を受けたようだ。それにより郷土作家のまとまったコレクションとなり、収蔵作品展を頻繁に開催している。

 

一方、青森県立美術館について調べると、所蔵作品は令和元年で4767点であるが、ここも作品購入の予算が少ない上、市民からの寄贈についてはあまり積極的ではない。郷土作家といっても奈良美智さんの作品を寄贈する人はいないだろうが、他のあまり知られていない郷土作家の作品はたくさんあるはずである。先日も、棟方志功の師匠と呼んでも良い下澤木鉢郎の作品3点の寄贈を青森県立美術館に写真付きでメールした。一応、見てみて、委員会に諮ってから受け入れを決めるという。ただ委員会の開催は一年以上後とのことであった。

 

これは弘前市立博物館や弘前レンガ倉庫美術館でもそうで、原則的には市民からの寄贈や寄託は受け付けていない。まず対応する職員が少なく、また保管するスペースもないからである。ただよく考えていただきたいのは、博物館、美術館は、所蔵作品を市民に見せる場でもあるが、同時に市民の宝を保存する場所でもある。放っておくと、家のある古いものはどんどん捨てられてしまう。たとえば、世界中で話題になっているボロ、ツギハギだらけの衣料も田中忠三郎さんの努力によりコレクションされているが、これなど汚いものとして捨てられる運命であるし、今でもどこも寄贈できないのであれば、捨てられていっている。個人的にあれほど弘前で盛んであった弘前木綿がほとんど残っていない。

 

もちろん市民が寄贈を希望するものの多くはガラクタに類するものかもしれないが、それでも後世に残すべき作品もあるはずで、少なくとも専門家が仕訳をしなくてはいけない。最初に述べた徳島県立美術館の場合、1。寄贈を受けるため所有者や関係者のもとに足繁く通う、2所有者の代替わりに際して寄贈の相談を受けるなどの、継続的な活動を行い、さらに寄贈品はそのまま無条件で収蔵するのではなく、館内で熟議し、専門家と協議した上にコレクションにするという。

 

特に青森県では、耐震強度の問題で、青森県立郷土館が休館のままになっている。ここは青森県でも比較的寄贈を受け入れるところだっただけに、このまま休館が続くのは寂しいし、その間も貴重な歴史的資料が失われている。元々アメリカで言うと、美術館や博物館は市民の寄付や寄贈で作られてきたため、財政的にも国、州、市に依存しておらず、地元会社や個人の寄付で成り立っている。市民ボランティアも多く活用している。それに対して、日本の多くの博物館や美術館は公的予算で成り立つところが多い。もちろん私設美術館はそうではないが。

 

弘前博物館でも、実は後援会があるがほとんど知られていない。安い会費で、企画展など無料で観覧できるので、お得なものであるが、ほとんど広告していないせいか、会員数は減っている。これなどもっと市民にアピールすべきである。また市民からの寄贈については、まず美術館のスタッフの増員、あるいは収容スペースの確保とともに、もっとボランティアを活用すべきである。リタイヤした老人の中にも美術品が好きな人もいるだろう。図書館ではそうしたボランティアの人も見かけるが、あまり博物館や美術館では見かけない。

 

図書館、美術館、博物館というのは住む人の文化的な顔である。文化的な都市を目指す弘前市であるならば、もう少し予算、作品収集ではなく、スタッフ予算を増額、あるいは積極的なボランティアの募集、後援会の拡大など、やりようはあると思う。人口17万人の街に、博物館と美術館があるのは贅沢なことであるが、なんとか市民も含めて支えていきたい。


2025年2月22日土曜日

宮本輝 「潮音」 第一巻



楽しみにしていた宮本輝さんの新著が出たので、早速買って読み終えた。弘前市は、紀伊国屋書店、ジュンク堂書店がなくなり、近所にも本屋がなくなったので、宮本さんの新刊が出たのを知ったのは新聞の広告であった。最近は宮本さんの本が出るやいなや、すぐの書評をブログに上げるということをしてきたが、今回は発刊してからかなり時間がたった。

 

まず新刊「潮音」でびっくりしたのは、時代小説とは。これまで宮本輝さんはほぼ現代小説ばかりだったので、時代小説はどうかなあというのがまず最初の感想であった。ところが10ページも読まないうちにこれはまったくの杞憂であり、さすがに才能ある小説家はいとも易々と新しい分野、時代小説をものにした。ここらはさすがにベテラン小説家のなせる技である。

 

100ページくらい読むうちになぜか、既視感がある。小説の時代設定、感触が何かの小説に似ている。しばらく考えると、あの島崎藤村の名著「夜明け前」に似ている。といってもこの小説自体、10年ほど前に読もうと思って本は買ったが、一部の前編しか読んでいない。それでも幕末の、新しい時代と古い時代の狭間、こうした不安な空気がそこにある。ただ「夜明け前」は藤村にとってはけっして時代小説ではなく、父親の生涯を描いたものであり、宮本さんの作品でいうなら「流転の海」に近いものとなる。幕末、明治といえば、若い人からすればかなり昔のことのように思えるかもしれないが、1947年生まれの宮本輝さんからすれば、父親、熊市が1897年生まれ(明治30年)であり、その父、宮本さんの祖父の時代が幕末、明治となる。それゆえ、「流転の海」で父親の時代を描いたなら、「潮音」は祖父あるいは曽祖父の時代を描いたものであり、けっして時代小説ではないのかもしれない。

 

それでも富山の薬売り、あまりこうした職業をベースにした小説はなく、細かい設定を調べるには相当な年数を要したのだろう。純粋な現代小説であれば、登場人物の職業や趣味の設定を調べる必要があるが、それでも資料調べの時間はそれほど必要ない。一方、「流転の海」でもそうであるが、過去の日常の様子をいきいきと描写するためには膨大な資料とそれの読み込みをしなくてはいけない。かなり大変であっただろうし、時間も要したであろう。

 

この小説「潮音」は間をおかず、四巻を一気に出版していくようであるが、宮本さんのパワーには驚かされる。あの司馬遼太郎さんも1987年、司馬さん64歳の時の「韃靼疾風録」を最後に長編小説は書かず、それ以降は短編小説あるいはエッセイが多いが、宮本さんもすでに77歳、それでも毎年のように長編小説、それも本作のように4巻の大長編をいまだに書き続けることに驚嘆する。普通ならライフワークの「流転の海」が完結したなら、そろそろさぼりたくなるのが、それ以降の作品、「灯台からの響き」、「よき時を思う」そして本作「潮音」と立て続けの出版しており、その創作意欲には敬意を払う。

 

本作でも、主人公の回想という形で話が進んでいくが、この方法は、映画の間奏のような効果があり、息継ぎができる。まだ三巻あるようなので、楽しみが増えた。映画化、ドラマ化の予感がする。大好きなBS時代劇“商い世傳 金と銀”のような作品になってほしい(この続編はいつになったら見られるのでしょうか)。


 

2025年2月19日水曜日

祖母のこと

 

祖父の葬式


晩年の祖母と私

父方の祖母は、私が2歳頃に亡くなった。確か亡くなったのは70歳くらいで、テレビが好きで毎晩、遅くまで見ていた。朝方、母親が見に行くとテレビがついたままで、横に寝ている祖母を起こそうとしたが、亡くなっていたという。

祖父の本籍地は徳島県板野郡吉野町というところなのはわかっているが、祖母の実家がどこなのかはわからない。多分、近郊の在であったのだろう。広瀬の家は、1500 年代に名古屋から四国に流れ着いて、そこでずっと百姓をしていた。家には家系図があり、かなりいい加減な代物であるが、それでも徳島の檀家寺から記録を集めたのか、室町末くらいからの記録はほぼ正しい。というのは全く無名の広瀬姓の名が続いているからであり、それもずっと百姓であった。

 

祖父と祖母は結婚して、しばらくすると大阪に出てきていろんな商売をしたようだ。最終的には、大阪の堀江、新町遊郭で栄楼という遊郭を開業したものの、昭和5年、祖父が40歳の若さで亡くなり、そこからは祖母一人で一家を支えた。家族は、長女、次女、長男(父親)、次男の5人家族だったが、こうした商売は儲かったのか、叔父、叔母ともにあまり金には困らなかった。実家のある徳島には豪華な家を建て、父親はそこから旧制中学校、そして上京して東京歯科医専(現:東京歯科大学)に入った。昔のことだが、歯科医にするのは結構金がかかった。

 

両親は、私たちの子供には、父母のこうした商売のことは触れずに、大阪で広い土地を持っていたが、戦後のどさくさで土地をなくしたと言っていた。実際は、長女夫妻が戦後、電気風呂という事業をするが、うまくいかず、抵当の土地を取られたようだ。そのため、私が1歳、昭和32年ころに、祖母は無一文で尼崎の家にきた。当時、私の家には父親、母親、姉、兄、と私の5人家族だけでなく、母親の妹2人が大阪の洋裁学校に行くためにいて、さらに祖母がそこに加わった。計8人がいたことになるが、わずか13坪くらいの家で、それも一階の大部分は診療室だったので、2階の8畳2間と一階の台所4畳半にこれだけの人数が寝泊まりした。

 

姉、兄は小さかったからか、急に現れた祖母に「クソババア」などきつい言葉を言っていたので、父親の兄弟からはあまり好かれていなかったが、私は赤ちゃんでいつも抱っこされていたので、今でも親類では一番好かれている。晩年は、ようやく家に入ってきたテレビが好きで、一日中見ていたようだが、今、考えるとまだ70歳くらいで、当時の写真を見てもかなり老けている。夫を早く亡くしたにも関わらず、なかなか女手では難しい仕事をして、子供を育て上げた。人と交渉するときは、必ずタバコを吸って心を落ち着かせながら話したという。

 

個人的には、祖母は今の家内と結婚するきっかけになった。ある日、夢の中で祖母が現れ、この人と結婚すると良いと勧めてくれた。あまりにリアルな夢だったので、これはお告げと信じ、結婚を決意した。早速、両親に夢の話をすると、特に父親は喜んでくれ、全く反対もなく、結婚に至った。自分にとって祖母は全く記憶になく、残っている写真だけの存在であるが、今でも何かあれば、祖母に助けを求める存在である。不思議なことである。思うに晩年、全てを失った祖母にとって、幼子の私を抱っこしてあやすのが、何よりも楽しいことだったのかもしれない。同居していた母親の妹によれば、本当によく可愛がったという。そうした思いは、亡くなって60年たつが、両者とも色濃く残っている。



2025年2月15日土曜日

建物紹介番組を考える


 

          アアルトの自宅 すごしやすそうな部屋である。



          リサ・ラーソンの自宅リビング 壁には絵を


「渡辺篤史の建もの探訪」や「となりのスゴイ家」などの建物を紹介する番組は好きで、よく見る。多くは建築家の自宅で、宣伝も兼ねて番組出演しているようだが、どうも気になる点がある。つまりあんまり生活感がないのである。夫婦二人の子ども二人いれば、相当生活感があるはずであるが、番組で紹介されている住宅には物がほとんどない。確かに番組の取材にくるのだから綺麗に片付けたといわれれば、その通りであるが、それでも何だかモデルルームのような家が多い。

 

これは建物を扱った番組だけではなく、雑誌「モダンリブング」やインテリア雑誌をみても、本当に何にもない家が多い。シンプル、何もない家に憧れがあるのか。真っ白な壁、黒のソファー、床も大理石、大型のテレビ、こんな感じか。なかなか緊張する部屋だし、寝っ転がってポテトチップスも食べられない。ましてや子どもがいる場合、彼らは遊びまわるし、汚し回る、これから白い壁、床をどう守るか、お母さんとのけんかが絶えないだろう。こうしたすべて、新品に囲まれたシンプルな家、日本人が好きな家である。

 

一方、欧米の雑誌をみると、リビングの雰囲気は全く違う。いかに生活しやすい、くつろぎやすいを主体として、温かい、少し雑然とした家が多い。多くのものがあり、それらを見ると住む人の趣味や好みがわかる。

 

日本の家、といっても雑誌などで紹介する理想の家は、基本的には何もない家であるのに対して、欧米のこれも理想の家は、住む人がくつろげる空間となっている。すなわち日本の家は外から見られるモデルルームのような新品の家が好まれるが、欧米では、外からどうみられるよりは住む人が快適な家をめざしている。具体的にいえば、欧米の家では床に絨毯などを敷くことが多い。何種類も、大きさや柄の異なった絨毯がいたるところに置いている。和室であれば畳自体が快適であるが、洋間のフローリングは寒いし、温かみ欠けるため、絨毯などラグで覆う。さらに日本では白い壁であれば、そのままであるが、欧米ではここに絵や写真を飾ることが多い。また壁に大きな棚を作り、そこに趣味の人形や陶器を飾っている。そして新品というよりは使い込まれたインテリアで部屋をまとめている。

 

こうしてみると日本の家は何もない新品の家に対して欧米の家は、モノ囲まれた中古の家と言ってもいいのかもしれない。実際、日本では新築の需要が70%以上なのに対して、欧米は逆に中古住宅の需要が80%を超えていて、そうしたことも部屋の内装に違いが出ているのかもしれない。エコの観点からも、そろそろ日本人も新品嗜好から足を洗い、好きなものに囲まれた気の休まる家に回帰する時代になってきたのではなかろうか。そうした意味でも、新しい家ばかり取り上げる建物番組から古くてもいいが、おしゃれなくつろぎやすい建物も取り上げてほしいものである。新しく家、建築予算いくらというものではなく、古い家をリフォームし、絨毯をしいて、家具を入れ、絵を飾るとこうなったといった番組もありかと思う。