2025年1月22日水曜日

社会にとって進歩は必要か

 





テレビドラマ「JIN-仁」をネットフリックスで見ている。16年前のドラマで、だいぶ内容を忘れているせいか、もう一度見ても面白い。2000年から1862年にタイムスリップする話であるが、この140年ほどの社会の変化はすごく、これぞタイムスリップものという内容となっている。それに対して最近放送された「不適切にもほどがある」は1986年から2024年のタイムスリップである。約40年前へのタイムスリップである。番組では阿部サダオが演じる中年おじさんの考えのギャップが面白く描かれているが、主人公はすぐに未来社会に馴染んでしまうし、逆に2024年の人が昔にタイムスリップしても同様である。例えば1860年から50年後、1910年(明治43年)の差は明治維新を挟んでかなり大きな変化があり、さらに50年後の1960年(昭和35年)との差も太平洋戦争を挟んでいて世の中は一変している。ただその後の50年、2010年と1960年さらにいうと、大阪万博があった1970年と今の2025年ではそれほど大きな変化はない。もちろん1970年当時では携帯電話、スマホもないし、パソコンも普及しておらず、インターネットすらない。ただ人々の生活というと、テレビ、洗濯機、冷蔵庫など、今の家電のほとんどは普及しており、服装だってそれほど違わないし、音楽もそうである。当時に比べて女性の社会進出は目覚ましく、今は共稼ぎが普通になっているが、生活そのものはそれほど大きな変化はなく、多分、2024年から50年前の1974年にタイムスリップしてもすぐに慣れるだろうし、逆もそうであろう。

科学の進歩はいずれプラートーになっていく。新しいものが生まれ、そして急速に進歩して、停滞する。ほとんどのものがこの過程となる。例えば、自動車の発明は1769年であるが、実際に普及したのはT型フォードが売られた1908年、その後、40年くらいでほぼ今の車の形態が出来上がっている。同様に飛行機、例えば旅客機について言えば、ボーイング707が就航したのが1958年、それ以降、大きな変更はない。船について言えば、現在の旅客船舶とタイタニック号は、それほど差がない。短いところで言えば、パーソナルコンピュターについても1980年頃から急速に普及し、その後の開発速度は恐ろしいほどであったが、ここ10年ほどはその速度もかなり落ちてきていて、パソコンの能力もそれほど拡大していない。I-phoneも同様で、全てのものが急激に進んで、プラトーになっている。今はAIの全盛期であるが、これもあと20年でプラトーになるだろう。

 

要するに人間の生活に必要なものは、ほぼ満足できる状態にまでなったのが現代で、あとは核融合発電が軌道に乗り、安価なエネルギーが確保できれば、地球に住む限り、あまり進歩が必要でなくなる時代が来るのではなかろうか。最初に述べたように全ての発明は急激に発達してからプラトーになることを考えれば、もはや今以上の生活を我々人類は求める必要はなくなってきている。平均寿命が80歳から90歳、100歳に伸びても、それほど幸福ではなかろう。最近も1980年頃もコカコーラの宣伝を見たが、当時のまま全く進歩しなくて、そのまま40年経ってもそんなに不幸ではないだろう。欧米では環境問題に主眼を置く脱成長論が話題になっているが、それをさらに進めて、もうこれ以上社会的な進歩は必要ないように思われる。ことに日本という限定した空間でいえば、貧困問題などいろんな社会問題はあるにしろ、多くの日本人にとって日本は住み良い環境にあると断定できる。戦争状態のウクライナに比較しなくても、日本以外の国、韓国、中国、東南アジア、アフリカなど他国にある問題に比べると日本が持つ問題は実に些細なことで、例えば、日本では生活する上で最も大事な医療について、金がなくて世界でもトップレベルの医療を受けることができる。こうしたことができる国は世界でもそれほど多くない。そして生活する上で次に大事なのは安全性で、これも日本は世界でもトップレベルの安全な国である。就職率もよく、サラリーは世界基準に比べると安いものの、家賃や食費も他国に比べて安く、貧富の差もそれほど大きくはなく、さらに共産主義国に比べると自由度も高い。何も不満に思うことがあるのかということである。もちろん上を向いたらキリがないが、多くの人々はそこそこの生活はできている。いい時代に生まれたものである。

 




2025年1月18日土曜日

映画「石中先生行状記」 ロケ場所の特定

 



上記キャプチャーは「なつかしの映画をカラーでJapanese  Nostalgic Cinemas」
(YouTube)より引用、フルムービーでみてください。


弘前商工会議所五十年史(昭和33年、弘前商工会議所編)


映画「石中先生行状記」のロケ地についての問い合わせがあった。以前このブログで取り上げたので、引用許可のお願いである。なんでも成瀬巳喜男監督の研究をされている方で、きちんとされた方である。私のブログは出典さえ明示していただければ、自由に使ってもらって結構だし、私自身も基本的には出典を明示して引用している。

 

石中先生行状記は昭和25年の作品で、前年に弘前市でロケが行われ、ざっと見ただけだが、弘前市の郊外の農村地、草原と市内の土手町、本町、弘前大学医学部附属病院などでロケが行われたのはわかる。

 

さらにどこで撮影されたかもう少し、具体的に探そうとするとこれはなかなか難しい。この映画は3つのストーリからなり、一話に出てくる弘前市のシーンは土手町の蓬莱橋付近である。二話では、セットとロケが組み合わされているが、池部良が自転車で店を出て走るシーンがあるが、ここが土手町のどこかということになる。

 

まずヒントとして店の前に“青森県スポーツ社弘前支局”の看板がある。この会社は1948-49年に青森県スポーツという週刊誌をだしていた出版社で、それ以外の記録はなく、住所は同定できなかった。お店の看板は、“卓球用品  トキワヤ”と読めるが、ここも該当するスポーツ店はない。また“石鹸小売販売店”という看板があるが、これもヒントにはならなかった。

 

次のシーンで、池部良が自転車に乗り込みところでは、前方左の三角屋根の時計台がある。これは現存する一戸時計店で、距離から推定すると、石井果実店かその隣当たりと推定できる。ただこれも使っている撮影レンズで望遠よりのレンズであれば、圧縮効果で近くに見える。

 


さらに続くシーンをみると、左の大きな商店が見られる。土手町、昭和25年に限定して、手持ちの弘前商工会議所五十年史(昭和33年、弘前商工会議所編)を見ていると、土手町89に慶応3年創業、明治35年建築の福永商店、奥他福永履物店の写真がある。屋根の形状、看板の配置、隣の白い蔵?なども完全に一致する。ただ最初のシーンでは石井果実店あたりから一戸時計店、西方向に自転車を走らせているが、このシーンでは奥他履物店が奥にあることから東方向に自転車は走っており、逆向きとなる。おそらく最初のシーンと次のカットでは撮影方法を変えたのではないかと推測する。

 

三話では、主人公が姉を見舞いに大学病院を訪ね、その帰りに土手町を散歩するシーンがある。店の前に旗があるが、逆向きになって店名がわからない。これもキャプチャーで画面を撮影し、反転すると“きたや呉服店”の店名がわかる。きたや呉服店は明治35年創業の老舗呉服店で、住所は土手町146番地となる。上土手町で、現在は駐車場になっている。大学病院から土手町に行くとなると、西側の下土手町から中、上土手町に歩くはずであるが、このきたや呉服店が画面奥にあるということは主人公は逆向き、東から西方向に歩いていることになる。これも第二話と同じで、カットによって最適なバックを選ぶ、こまやかな撮影を成瀬監督が行なっているようだ。





「なつかしの映画をカラーでJapanese  Nostalgic Cinemas」
(YouTube)  反転












2025年1月12日日曜日

今年の雪は異常である 2

 






落ちてくる屋根雪を隣のアパートに落ちないようにするフェンス


私は兵庫県尼崎市に生まれ、その後、宮城県仙台市、鹿児島県鹿児島市、宮崎県宮崎市に住んだ。このうち、冬に雪が降るのは仙台市くらいであるが、日本海側の仙台市の積雪はしれたもので、一晩で10cm以上雪が降ることはほとんどない。もちろん鹿児島市や宮崎市で雪が降るのは数年に一度くらいだし、尼崎市の雪が積もったという経験は数えるほどしかない。こんなに雪の降るところで住むようになったのは、1994年に移り住んだ青森県弘前市だけである。

 

鹿児島にいた時は車に乗っていたが、弘前まで車を運ぶのが大変なので、鹿児島で車を売ってやってきた。しばらくは家内の実家で暮らしていたが、ここには車を止めるスペースもなく、取り立てて車を持つ必要性もなかったので、弘前に来ても車を買わなかった。もう一つ、車を持たなかった理由は、とてもあの雪道を運転する自信がなかったこともある。そのまま30年間、車には乗っていない。よく友人から車なしでよく生活できるなあと言われるし、子供の小中学校でも車を持っていない家は一軒もなかった。不便は不便ではあるが、住まいと職場が歩いて7分、病院、スーパーなので日常生活に必要な場所も全て歩いていける環境なので何とかやっていける。

 

雪が降り始めるのは、毎年12月の中頃で、それが3月末くらいまで続く。今年の雪の量は異常であるが、例年は今頃から本格的な雪のシーズンで、これが2月末くらいまで続き、3月になると雪の量は増加から減少に向かう。4月になってもあちこちに雪の残渣は残り、全く雪が視野からなくなるのは4月の中頃で、一度は5月の桜祭りの期間に積もるほど雪が降ったことがあった。つまり雪で本当に大変な時期は1月と2月の2ヶ月間であるが、青森県津軽地方ではこの2ヶ月のために、全ての生活が関わる。

 

まず灯油代が高騰する。ボイラーによる融雪を行っている家では、冬季の灯油代がバカみたいに高い。ある医院では、10台分の駐車場があり、ボイラーによる融雪を行っているが、冬場1ヶ月の灯油代が実に40万円以上かかる。また違う歯医者さんでは、冬場の除雪を業者に頼んでいるが、シーズンで25万円、さらに排雪するために一回数万円、全部で50万円以上の支出となる。こうした雪に対する費用は雪が降らない、少ないところではゼロだけに、全く無駄な費用といえよう。さらにいうなら、雪が落ちない無落雪の家では数トン以上の雪が屋根に乗っかっているので、家屋の痛みも激しく、一冬すぎると、屋根や壁、庭木などあちこちに被害が出る。もちろん車高の低いスポーツカーなどは冬場乗れないし、ポルシェなどの高級車も雪道は走れない。

 

細かなことを言うと、私の家では、冬になると庭木を縛ったり、支えをつけたりなどの雪囲いを業者さんに頼み、さらに一階の窓全てに柵を張り巡らせる。あらかじめ窓枠に細長い板を差し込むようなフックを取り付け、雪が降る前に小屋に保存していた幅10cm、長さ50cmくらいの板を全ての窓に差し込む。また雪の重さで壊れないように庭に水道やエアコンの室外機、灯油タンクなどには大きな板で囲む。リビングの大きなガラス戸には、特注した大型の雪用の防雪柵をつける。四つの大きな柱を斜めにガラス戸の上下の立てかけ、そこに1.mくらいの長い板を20本くらい差し込み、柵にし、雪からガラス戸が壊れるのを防ぐ。この取り付けも歳をとると年々厳しい。

 

私のところは、屋根には雪止めをつけておらず、全ての雪が下に落ちるようにしている。家の痛みは少ない反面、家の周りが雪だらけとなり、その処分が大変である。家の周りにできた高さ4mくらいの雪山を崩し、周りに雪を平らにする。そこに行くまでが大変で、スコップで雪を削りながら、雪が一番高くなった場所まで到達するのであるが、新雪があると足が50cm以上も潜ってしまい、そこから脱出するのも一苦労である。特に家の裏手は到達するまでも大変で、裏にアパートの駐車場があるので、万一うちの雪が崩れて車に被害があると大変なので、数年前に頑丈な雪のガードをつけた。

 

雪用のプラスティックのスコップが3本、シャベルが5本、鉄、アルミ製のスコップが3本、スノーダンプが3台、氷割りコンパル、ツルハシ、さらに電動の除雪機が2台、まだまだ除雪用の道具があるし、これも毎年買い換える消耗品である。ある意味、津軽人は雪の2ヶ月を過ごすために全ての生活を集中しているといえる。津軽人の性格形成に大きく関与しているのは間違いない。

2025年1月7日火曜日

今年の雪は異常である

 





今年の雪は異常である。まだ1月になったばかりだというのに、すでに積雪は1mを超え、町中がスキー場になっている。昨年は雪が比較的に少なかっただけに、今年のこの雪は余計に腹が立つ。

 

私の家は、玄関から門まで30mくらいあるので、朝起きて新聞を取りにいくだけで大変である。パジャマを脱ぎ捨て、下着の上にパタゴニアのキャプリーン・サーマルウエイトという冬用のレイーヤを着込み、さらにR2ジャケット、その上のモンペルのゴアテックスのアウターに、帽子、手袋、そして長靴をはいてドアをあける。玄関入り口の雪を雪用シャベルで片付け、その後、新聞受けのある門までの25mをシャベリングしながら進み、新聞をとってから部屋に戻る。あまりここで頑張らないのは、寝起きの状態での激しい運動は血圧によくないためである。

 

コーヒーを飲みながら、新聞を読み、2030分してから、本格的な除雪作業に入る。まず門のそばに、最近買ったハイガーの電動除雪機にバッテリーを入れて、玄関から門までの雪を左右に飛ばす。乾いた雪で、2030cmくらいならこの作業は楽しい。ただ雪が濡れている重くて、この電動除雪機を押す力が相当必要で、また排出口に雪がつまって、その都度、つまった雪をどけなくてはいけない。玄関から門までの25mの小径の除雪が終わると、次は駐車場の除雪作業となる。車2台分の広さだが、ここも乾いた雪であれば、簡単に終わる。

 

問題はここからで、このシーズンは、ほぼ毎日のように除雪車が硬い雪を家の正面に置いていく。2030cm以上の大きな石ころのような雪の塊がどっと置かれる。これは私の持つ電動除雪機ではお手上げなので、スコップによる手作業となる。スコップで塊を小さくしてから左右に捨てるを、繰り返し、敷地の雪を片付けていく。この作業が本当に疲れる。昔は除雪車の運転手にタバコ代など渡せば、自分の家には置いていかれないと言われていたが、最近ではそんなことも聞かない。隣の家が毎日、家の前に車を止めるために、ここの雪も私の家の前に置かれるのが腹立つ。何度も注意しているが、一向にあらたまず、一度、警察に通報しようかと思ってしまう。冬場は、こうした雪のトラブルが増える。近くの家のおじさんは雪をすてる場所がないので、道をはさんだ向こうの家のコンクリ塀に置いていたが、この住民に注意され、さらに監視カメラを設置されると、監視カメラの死角に捨てるようになった。その後、雪を置かれた家は塀を壊し、駐車場にしたので、流石にここに雪は捨てなくなったが、今度は手押しシャベルで近所の駐車場に捨てている。最近は、この駐車場でも注意されたのか、開き直り、置かれた雪をまた道に戻している。また国道に面している家では、自分のところの雪を国道、といっても3車線、10メートル以上の幅のある中央車線までシャベルで捨てにいく、特攻隊と呼んでいるが、走ってくる車の流れの合間をみてのこの作業は危険極まりない。雪問題は、人間性が露わに出てくる。

 

この作業が朝の6時半から1時間くらいかかる。近所の住民はもっと早起きして5時くらいから作業をするところも多い。作業を終えて家の帰ると、どっさりと汗をかくので、下着を変えるが、ミレーのメッシュのアンダウエアーはすぐに水分が蒸発していいが、いかんせん太った私は、まるでボンレスハムになってしまう。こうした過酷な雪との戦いは4月まで続く。雪が完全になくなる春は本当に除雪をすることがなくなる開放感からか楽しい。




2025年1月3日金曜日

保険診療が適用される矯正治療

 


口蓋裂、ダウン症、その他の先天性疾患に伴う不正咬合、外科的手段が必要な骨格性の不正咬合については保険適用となっている。私の診療所も開業医以来、30年間、弘前大学医学附属病院の歯科口腔外科、形成外科、あるいは八戸市立市民病院、東北大学病院、大館市立病院の歯科口腔外科と連携し、230名の口蓋裂患者、414名の顎変形症患者の治療を行ってきた。総計で保険適用患者は、644名で、全体の患者数の20%であった。全国の矯正歯科医院の中でも保険患者の比較的多い歯科医院といえよう。

歯科大学のある大都市部では、これらの患者は大学病院に行くケースが多いため、開業医で治療することは少ないが、地方都市では地域の患者が開業医に集中する。青森県の場合は、同年齢の三名の矯正歯科医が青森市、弘前市、八戸市をカバーしてきたが、私も含めて、このうち二名は引退し、残りの先生も子供が引き継がないと引退するだろう。矯正歯科の専門医になるためには、まず6年間の歯学部教育を受け、さらに1年間の研修医、そして大学の矯正科の医局に残り、少なくとも6年程度の研修を受けて認定医をとる。さらに専門医を取るためには4年以上の経験が必要で、ここまで17年かかる。自分の子供を矯正歯科にするのは、なかなか難しく、他学部にいったり、矯正専門医にならなかったりすることも多く、友人の矯正歯科医でも子供が跡を継ぐケースは半分くらいである。

 

現在、弘前市には私も含めて四名の日本矯正歯科学会認定医がいるが、私以外の三名は保険の治療をしていない。この理由としては、保険適用をするためには、新規で始める場合、歯科保険のレセコンとマイナンバーカードの機器が必要である。両方を揃えるとなると数百万円の費用がかかるだけでなく、外科矯正治療をするためには、セファロ、パントモの他に、顎運動測定装置、筋電図が必要であり、この機械が300-1000万円かかる。私の診療所のように保険適用患者が年間で20人以上くるのであれば、これだけ費用がかかってもペイできるが、年間数人しか来ないととてもペイできない。さらに研修大学では、口蓋裂班、あるいは外科矯正班など、矯正科とは別のチームを作っているとこもあり、そうした大学矯正科では、チームに入っていないとあまり臨床経験もない場合がある。

 

口蓋裂、あるいは先天性奇形の患者さんが、弘前大学医学部病院形成外科から、紹介されるのは23歳ころで、通常、高校卒業の18歳くらいまで矯正歯科で管理していく。その間、常の治療しているわけではなく、様子を見ている期間は半年おき、実際に治療に入ると1ヶ月おきの通院となる。1516年間以上診ていくことになる。それでいて、少子化あるいは元々症例が少ないので、例えば口唇口蓋裂の場合は、出生率から津軽地区でも年間3、4人の患者さんであり、県内にそう多くの矯正歯科医院を必要としない。私もあと1年で辞めるため、そろそろ保険適用患者、特に口蓋裂の患者さんにはその旨を説明し、少しずつ紹介している。残念ながら保険適用の矯正歯科医院は弘前市にない。青森市の同級生の息子さんが矯正歯科の研修を終わり、跡を継ぐようなのでそちらを紹介しているが、患者さんには相当、ご迷惑をお掛けしている。また外科矯正患者については1年以上前から新規の受付を中止しているが、主として大館市の矯正歯科医院を紹介している。

2025年1月1日水曜日

弘前市土手町 生き残り策

 



紀伊国屋書店弘前店、弘前中央食品市場、肉の富田、開雲堂、そして中三デパートと弘前市内の繁華街、土手町にあった店屋が次々と閉店した。家から一番近い繁華街として毎日のように歩いていた通りから空家が目立ち、人通りも少なくなるのを見るのは、本当に寂しい。代官町の歯科診療所を開業したのは1995年で、当時の日課といえば、6時に診療を終了し、そのまま代官町から土手町に行き、紀伊国屋書店をのぞいてから、中土手からルネス街から坂本町を通って家に帰るのが日常であった。すでに最盛期は過ぎていたが、代官町、土手町ともにまだまだ活気があり、空き店舗はほとんどなかった。下土手にあった今泉書店がなくなった頃から、次第に空き店舗が見られるようになり、当初は商工会議所、商店街の働きで、できるだけ空き店舗がないように努力していたが、次第にそうした努力も実らず、さらに店がなくなり、ついに土手町の象徴となる中三デパートが閉店することで決定的に集客力が落ちた。もはや近所に住む私さえも滅多に行くことはなく、たまに行っても人が歩いていない。中三デパートが閉店する前も人通りは少なかったが、さらに追い討ちをかけたように、土手町自体が半ばゴーストタウン化してきている。

 

弘前の中心街がどこかというと、明治中頃までは本町がメインで、それに続く町として土手町が発展した。映画館や飲食店、あるいは角は宮川、角み宮川などの大型呉服店などもでき、次第に土手町が中心街となり、1960-70年頃が最盛期で、当時の写真を見るとアーケード街には人でごったがえしていた。その後、郊外に大型ショッピングセンターができ、また五所川原にはモールもできたため、周辺の市町村からの人の流れも止まった。

 

先日、こうした土手町の危機的状況を憂慮して市長と商工会議所の役員の面談がテレビのニュースに流れていたが、周囲の人の意見を集約すると、極めて評判が悪い。なぜ年寄りばかりが集まって話し合いをしているのか。お前たちの責任でこれだけ土手町が衰退したわけなので、これからを考えると若い人を中心に会議をすべきだと。極めて真っ当な意見である。少なくと、本気で再生を考えるなら、若者中心で、それをカバーする形で、商工会議所会頭や市長が参加するべきである。もちろん大学教授や学生など意見は理論先行で、これまでの中心市街活性化案もほぼ机上の空論である。立派な青写真があるが、これまでの土手町の状況を見ると、こうした学者あるいは地域活性化の人たちの意見は全て失敗であったといえよう。

 

弘前でも、若者の中にも先端的な仕事、店をしているところ人がたくさんいる。例えば、映画「冬物語」にも登場した衣料店のSlowpork、印刷屋のSunday Seaside(実は夫婦であるが)、古書店まわりみち文庫、中古家具、雑貨のPPP、代官町のThe Stables、百石町のOrando、真鍮表札のチコリ、古着屋のButton up clothingSeesaw、また料理店としては和食の陽、イルフィーロ、100年以上続くがイメージを一変したパン屋、Boulangerie ISHITA石田パン、チョコレートの浪漫須貯古齢糖、若者とはいえないが、笹森シェフのイタリア料理のOsteria Enoteca Da Sasinoも日本に誇れる名店である。他にもあちこちに小さいながら独特な店がある。

1.こうした個性のある店が土手町に集まったら、今よりは訪れる客も増えるか?

歩いていて楽しい。おしゃれな店、喫茶店、飲み屋、レストラン、雑貨屋、家具屋、古着屋、レコード店、さらにいうならライブハウス、ミニ映画館、本屋、ここまで書いていて、20年前まで、これらの多くの店があったのだが、客は来ずに店は潰れていった。土手町が東京、下北沢や高円寺のような街であったなら、どうだろうか。おしゃれな古着屋、ブティック、喫茶店、レストラン、そんな場所であっても多分人は来ないだろう。そもそも弘前市の青少年人口(0歳から24歳)が3万3千人、このうち20歳から24歳が7千人くらい。もう少し広げて20-30歳とすれば、1万4千人くらいが、こうした若者向けの店の客になろう。これは少ない。

2.車社会なので、もっと駐車場が必要である

30年前から言われていたことだが、車で行くのが不便で、もっと駐車場を、あるいは双方通行にという声も多い。実際、空き店舗は次々と駐車場になったが、ほとんど空車ばかりで、駐車場ができても客は増えるどころが減っている。また双方通行可能にという声もあるが、これも土手町を歩いていて、ここを通る自動車のほぼ90%はただの道として使っており、土手町に用事のない車ばかりである。双方通行にすれば、さらにただの道となる。

3.市による開業資金の補助、低融資、家賃の補助

若者がここで開業できるような手助け、例えば店舗開業資金を低融資で斡旋し、1年間の家賃の半分を負担するなど、開業の敷居を低くするよう魅力的な提案はどうだろうか。今、マンションの建っている下土手町のハイローザ跡地に、昔屋台村があり、安いテナント料、開業資金で開業できた。ここを起点にその後、商売を始めてところも多く、百石町のがだれ横丁として残っている。商売はやってみないとわからない要素があり、とりあえず若者が土手町で開業できるような方策が必要だし、個性的な店が開業しやすい。

 

結論として、土手町の活性化は、そもそもの人口が減少しているのでかなり難しく、商店街ではなく、違う活用方法を検討すべきであろう。一つは一部車両以外の通行止め、いわゆる歩行者天国にする案である。そして弘前駅前から土手町までの遊歩道のような半分公園のようにし、そこでいろんな催しをやるような場所にする。もちろん冬でも雪がない、融雪道路にして、できればベンチや木、花を植えて歩いていて楽しい場所にしたい。弘前駅から上土手町に続く遊歩道は。歩いている人も少ないが、たまに音楽フェスティバルや朝市が開かれていて、繁華街とは言えないが、公園として見れば、これでいいのかと思ったりする。弘前駅から弘前公園まで、長い公園のような遊歩道は、街の景観としても優れている。昔、訪れた姫路市も駅から姫路城まで、ものすごく広い歩道があり、いろんなオブジェが飾っていた。特に北国では、冬の雪の多い季節でも完全な融雪となる歩道は冬場のジョギングなどにも活用でき、観光客にも便利なものとなる。また周辺住民にとっても家の前に融雪の効いた空間のあるのは住み良い。