2026年4月19日日曜日

風、薫る   鈴木雅はなぜ看護師になったのか

 

坂の上の雲から 鈴木雅の立場は、秋山好古の妻、旗本の娘、多美のようなもの


鈴木雅が結婚したのは幕臣の鈴木良光、おそらくは旗本で、江戸幕府では高禄の家臣であったと推測される。士族ではほぼ同格の家同士で結婚するものなので、雅の実家の加藤家も同格であったと思われる。

 

夫の鈴木良光は維新後に日本帝国陸軍に入り、歩兵第九連隊第二大隊長として西南戦争に参戦した。戦功により少佐に昇進し、仙台鎮台第二管第四巻菅後備軍司令官になった後に、西南戦争で負った傷が元で亡くなった。34歳の若さであった。

 

西南戦争当時の日本陸軍の構成は、太平洋戦争時に比べると驚くほど簡素で、指揮官も少ない。例えば、熊本城に立て籠もり、西郷軍の攻撃を防いだ熊本鎮台で言えば、司令長官は谷千城少将、歩兵第13連隊長が与倉知実中佐、第一大隊長が奥保鞏少佐、小倉の歩兵第14連隊長が乃木希典少佐など、連隊長クラスで中佐、少佐、大隊長クラスで少佐、大尉となり、鈴木良光が所属する大阪鎮台では、連隊長は3人の少佐、大津の歩兵第9連隊でいえば、第1、2、3大隊長は3人の大尉から構成され、鈴木大尉が所属する第2大隊は士官19名、下士官75名、兵卒545名の640名であった。

 

西南戦争の編成時の陸軍トップは少将が1名、大佐はおらず中佐が11名であるが、日露戦争ころになると連隊は3000名単位で、連隊長は大佐、大隊は800名で、大隊長は少佐または中佐、中隊は200名で、中隊長は大尉または中尉がなる。つまり西南戦争では日本陸軍の最高位は中将で、感覚的には日露戦争以降の陸軍構成に比べて一階級下になっている。西南戦争では連隊長は少佐という例もあったが、日露戦争時になるとまずあり得ず、連隊長は大佐であった。

 

こうした見方をすると鈴木雅の夫、鈴木良光少佐の階級は陸軍の中でもエリートであり、怪我もせずにそのまま陸軍に残っていれば、将官になった可能性は高い。鈴木雅が亡くなったのは1883年(34歳)で、亡くならなければ1894年の日清戦争では44歳で階級は大佐、1904年の日露戦争では54歳で少将から中将として参戦し、師団あるいは旅団を指揮していたはずだ。テレビドラマでは鈴木雅をモデルにした大家直美は孤児という設定であるが、実際はエリート軍人の妻であった。明治15年当時の陸軍少佐の給与は月俸70-80円くらいで、現在の貨幣価値に直すと月給140-200万円程度となる。かなり高給取りで、大きな邸宅に住んでいて、女中、書生がいる。NHKドラマ「坂の上の雲」で、秋山好古がフランスから帰国し、旗本の娘と結婚するが、あれが陸軍少佐の生活で、鈴木雅は、秋山の妻、佐久間多美(松たか子が演じる)のような存在で、貧しい生活をしていたのではない。

 

明治9年の陸軍恩給法によれば、公務でなくなった場合の遺族に払われる扶助料は給与の1/3程度であり、この計算によると鈴木雅が夫の死後に貰っていた扶助料は、月で25円から30円程度で、今の価値に換算すると50万から60万円くらいとなり、働かなくても生活には全く困らない。もう一人に相棒、大関和に比べると、よほど経済的には恵まれている。普通、これだけの遺族年金があり、子供が2名いれば、生活のために働く必要は全くない。ところが鈴木雅の場合、母に子供の世話をしてもらいながら、看護学校に行き、看護師となる。どうしてもなりたいという強い動機があったと思われる。もちろん怪我を負った夫の世話をする中で、看護師の仕事の重要性を知ったことは間違いない。ただここで考えて欲しい。鈴木雅が桜井女学校看護婦養成所に入ったのは明治19年(1886)、28歳の時である。二人の幼児を抱え、経済的には生活の心配がない環境で、いくら夫の看病が長引いたといって、看護学校に行くであろうか。夫の死だけではその動機を説明できないように思う。

 

同窓生の岡見京が渡米し、ペンシルベニア女子医大に入学したのが1885年、菱川やす(1860年生まれ)も明治19年(1886)にシカゴ女子医大に入学した。特に菱川やすは、鈴木雅とは同級生で明治4年に10歳で横浜共立女学校に入学し、明治11年に修了すると、母校の教師となり、明治145年ころに大倉という人のところに嫁ぐが、2、3年で戻る。明治18年に慈恵医院で看護師養成問題が出てきて、大山捨松などの尽力で看護婦学校の設立資金、6478円が集まり、その時にミス・リードを招聘し、その通訳を菱川やすが務めた。その関係から1886年にアメリカの女子医大に留学した。ミス・リードは1881年に来日し、1884年から有志共立東京病院看護婦教育所で、日本で最初の看護師教育を始めた。鈴木は菱川より6歳くらい年上だが、境遇も似ているため、お互いに連絡があり、菱川を通じて看護婦についての知識を得たのだろう。また宣教医アデリン・ケルシーは、1885年に横浜にきて、医療活動をしていたが、その医療補助をしていたのが鈴木の同級生の須藤かくと阿部はなで、のちに彼女らもアメリカの女子医大に入学し、女医となる。さらに同級生の桜井ちかは、桜井女学校の創立者、吉益亮子は1885年に女子英学教授所を創立するなど、同級生、同窓生の多くが社会に出て活躍している。こうした特殊な交友関係とキリスト教による慈善精神が鈴木雅を看護師への道に向かわせたように思える。


ただ疑問なのは、もし菱川から看護婦のことを聞いた

なら、鈴木雅は西新橋にある東京共立病院看護婦教育所に行きそうなもので、1886年に菱川が渡米すると、リードの通訳もおらず、その後釜に雅が適任だと思われる。それとも同級生の桜井ちかから、新たにできる桜井女学校附属看護婦養成所のアグネス・ヴィッチの学生兼通訳と決まっていたのだろうか。

 


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