以前、東京の攻玉社に関係する方に質問したところ、ご丁寧にも「攻玉社 百五十年史 人物誌」をお送りいただき感謝している。攻玉社は日本でも最古の近代的私立学校の一つで、創立は文久三年(1863)、ほぼ慶應義塾に匹敵する名門学校である。戦前は海軍の予備校的な存在で、何とこの学校から、海軍大将15名、海軍中将69名を輩出した。創立者の近藤眞琴と弘前藩士は関係が深く、後に弘前出身の山澄直清が副社長、藤田潜は校長となった。さらに藤田潜の子供、藤田尚徳は戦前最後の侍従長として昭和天皇を補佐した。
その藤田尚徳の評伝、「終戦の侍従長 海軍大将藤田尚徳」(外崎克久、清水弘文堂、昭和63年)を古書店で購入して読んだ。外崎さんの著書は、津軽の偉人を、多くの資料を用いて丁寧に描いており、本当に参考になる。本書について言えば、藤田大将は軍人で、それほど戦地に出てないこともあり、ページ数を稼ごうとしたが、どうも無理だったようで、後半百ページくらいは「探海燈」と題して、これまでまとめられなかった事項をここで記述している。この中で青森県と攻玉社の関係を取り扱った章があるので、これを中心にまとめてみる。
攻玉社出身の青森県人(明治3年から20年)
山澄直清(攻玉社副社長)、津軽八十五郎、笹森清定(攻玉社副社長)、柏原長繁(海軍大佐、磐城艦長)、奈良茂智(攻玉社副社長)、小山内雄五郎(攻玉社教員)、藤田潜(攻玉社副社長)、山澄太郎三(海軍少将)、梶正章(攻玉社教員)、角田栄之進、角田元千代、山澄富子(二代社長、近藤基樹の夫人)、山澄清三、伊東友衛、中舘広之助、藤田弥六、傍島申子太郎、奈良浄、青木英彦、佐々木和策、加藤三吾、乙部直樹、山崎彦之進、出町良蔵、佐々木多聞、奥崎義郎、下平英太郎(海軍少将)、阿部次郎、木村一太郎、木村徳章、田中英太郎
攻玉社に勤めた青森県出身の教員
山澄直清、笹森清定、奈良茂智、藤田潜、梶正章、前田浄一、小山内雄五郎、渋江保、加藤三吾、藤田弥六、出町良蔵、乙部直衛、古川広吉
戦前の昭和天皇の侍従長は、初代が弘前出身の珍田捨巳で外務省の出身、二代目は海軍大将の鈴木貫太郎、3代目も海軍大将の百武三郎、そして4代目は海軍大将の藤田尚徳と海軍出身者が続き、昭和天皇の陸軍嫌いを表している。また鈴木、百武、藤田はいずれも攻玉社の出身であり、初代の珍田捨巳は、攻玉社の藤田潜とは弘前藩の藩校、稽古館で英語を習った親友であった。戦後の侍従長の多くは、外務省出身者が多いが、明治以降の侍従長を見ても、外務省出身者としては珍田が嚆矢であり、戦後の流れの基本となった。
他の青森県出身の海軍軍人で攻玉社に学んだものとして、山澄直清(大尉)、柏原長肇(大佐)、田中英太郎(少佐)、山澄太郎三(少将)、山崎彦之助(主計総監)、下平英太郎(会津、少将)、秋元猛四郎(少将)、鈴木田幸造(大佐)などがいる。このうち山澄は塾生というより教官に近く、すでに幕府の海軍操練所で近藤真琴から直接、測量学を学んだ。その後、山澄、柏原は上京し、攻玉社で学び、海軍兵学寮で教官となった。海軍大尉となった後も攻玉社で教えた。山澄直清の孫、貞次郎少将は昭和天皇の侍従武官となった。昭和11年から15年までで、当時の侍従長は攻玉社の先輩、鈴木貫太郎大将、百武三郎大将であった。同時に鈴木、百武は、山澄直清の教え子でもある。

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