2010年9月5日日曜日

山田兄弟29





 櫛引武四郎については、何度かこのブログでも触れたが、文献がほとんどなく、詳細はわかっていない。

 珍田捨己が昭和3年に書いた「櫛引錯斎先生」という文の中に次のような記述がある。

「先生には五男一女があった。長は英八(櫛引英八)、次は工藤(工藤行幹)の姓を昌し、次は女子、三男、五男は夭折し、四男(櫛引晴四郎)は桑村家に養われた。両兄(櫛引、工藤兄弟)は常に国事に莽走していたので、其家事向から子供の教育は大半弟の手に委せられ、弟は之れを吾が子の如く撫育し、而も先生伝統の硬教育で、或者は往復六里の道を通学せしめたり、或者は虚弱のため牛乳配達をさせられたりしたが、両兄はそれについては更に言を挿まなかった。殊に英八君の第四子武四郎は非常に頑固な性質であったので、或時之を麻縄で縛して、井戸の水の中に水とすれすれに1時間も釣り下げられた事もあった。而かも斯子は往年朝鮮の或る事件に連座し外務省では今も尚之を行方不明としている。」(伯爵珍田捨己伝 菊池武徳編 昭和13年)

 櫛引武四郎は大正2年(1913)の中国の第二革命で亡くなっているが、珍田は朝鮮の或る事件に連座し、昭和3年になっても、行方不明としている。珍田は昭和4年に亡くなるから、最晩年の記憶であろう。当時、珍田は侍従長をしており、外務省には直接関わっていないが、外務省の重鎮として、情報は十分に入っていたであろうし、工藤行幹、櫛引英八などの故郷の旧知から、武四郎の安否についての問い合わせもあったであろう。第二革命で亡くなったのを知っていながら、袁世凱を推した外務省、友人牧野伸顕に憚っての発言であったのだろうか、あるいはただの記憶違いか。

 Googleブックスで「櫛引武四郎」で検索すると、台湾で最近出版された張家鳳著「中山先生輿國際人士」(2010.7)が見つかった。中国語は不明だが、次のようなことが書かれているようだ?

「上海東亜同文書院ができた当時の院長は佐藤正、委員には佐々木四方志、山田良政らがいた。教務長は山口正一郎で、学生には山田純三郎、安永東之助、柴田麟次郎、大原信、櫛引武四郎ら19名がいた。佐藤正院長は着任後すぐに辞職し、同年陸軍少佐根津一が代理となった。」山田は明治9年生まれ、櫛引は明治8年生まれで、朝陽小学校、東奥義塾は同級ではなかったが、南京東亜同文書院の一回生では同級生であったことが確認される。

「今泉三八郎・佐賀県人・海軍兵学校退学生・常に沈黙寡言の風格をもつ青年で、中国二次革命初期に上海に来て革命軍に参加した。志村光治らと上海機器局上流に停泊している中国軍艦を爆破しようと計画した。 略  南京陥落した日、混乱した軍の中には志村以外にも、櫛引某(武四郎)、建部某ら、その他の者がいて、朝陽門のところで敵の襲撃にあった。その後、二人の敵を倒し、雨花臺にあった何海鳴司令部に逃げた。二次革命も南京戦からは、戦いが激しくなり、混乱して状況もはっきりしなくなる。指揮官の何海鳴に不満をもつ志村、今泉以外の、櫛引、福田ら多くの日本人が純真な気持ちから革命に参加し、軍事的な援助を行った。南京革命軍には10余名が参加していたが、彼らは状況が次第に危機的になっていることを知らなかった。言葉もわからないため、一時領事館に避難しようとしたが、途中多くものが官兵により殺害された。その中に今泉以外の櫛引、建部、秋葉らの3名がいた。」殺された死体の背広の裏には、「タ」の印があったことから、亡くなったのは建部とわかった。この建部は建部子爵(林田藩)の甥であったことから、家族が南京領事館に訴え、外務省でも困惑したようである。九州佐賀出身の林 傳作もこの戦いで肺に弾を受け、病院で亡くなった。かなりの数の血気にはやる元日本人軍人が、第二革命に参加しているようだ。文中の志村光治については、「同文書院記念報Vol4」の孫文、山田良政、純三郎関係資料の中に、山田順造宛の1962.10の手紙があり、住所は神奈川県横須賀市となっている。戦後、志村氏が当時の手記を残しているなら当時の詳細がわかるかもしれない。また同誌の山田純三郎年譜には1915年の項に、「東亜先覚志士記伝」598-611頁に上海機器局砲撃、肇和、広瑞(應瑞の間違い)二艦奪取計画となっているが、上記計画と類似したものか。

 ちなみに櫛引錯斎(儀三郎)の家は、弘前市鷹匠町にあった。上の明治2年弘前地図では鷹匠小路となっており、現在の住所では鷹匠町44番地、藤田記念庭園の下あたりになる。なお鷹匠町には成田滝弥の名前が見えるが、青森県のリンゴ作りの功労者、菊池楯衞の生まれたところである(菊池家に養子にでる)。
 下の地図では、中瓦ケ町に工藤行幹の家が見られる。櫛引の家から養子に行った先であろう。左4軒先に菊池元衞の名が見える。津軽信政公事績の著者として検索される。さらに菊池元衞の家の前に一戸谷弥の名前が見られる。一戸兵衛陸軍大将の実家である。生まれたのは父の実家である田代町の船水邸であるが、育ったのはこの家であろう。

2010年9月2日木曜日

今東光



 今東光というと、映画「悪名」のイメージのせいか大阪出身の作家と思われている。実際は、父の仕事の関係上、生まれは横浜であるが、両親とも純粋の弘前人であり、りっぱな弘前出身者と考えても差し支えない。

 父武平は、弘前藩の下級武士、今文之助の4男として明治元年に弘前市山下町2番地で生まれた。当時の町割りは、現在でもそのまま残っており、店舗などが入る複合ビルになっている。敷地は200坪くらいであろうか、明治2年弘前地図では長男の今宗蔵の名前になっている。ちなみに宗蔵は東奥義塾の先生で、自由民権運動に参加した。

 武吉は、東奥義塾で学んだ後、函館商船学校を卒業し、日本郵船に勤務した。海外航路の船長を長く務めたが、ちょっと風変わりなひとで、「くるみ船長」と呼ばれた菜食主義者で、くるみをもっぱら主食にしたようである。また晩年には今はやりのオカルト、精神世界に通じるインドの神智学に凝り、クリシュナムルティの著書『阿羅漢道』を翻訳したりしている。

 母綾(あや)は、弘前藩医師伊東家久の4女として、弘前市元長町16で明治2年に生まれた。現在もその子孫が同じ所で医院を開業しており、また当時の家屋は仲町に保存されている。伊東の家の子供は、非常に優秀で、二男伊東重(1857-1926 春庵、号舜山)は、東奥義塾に進学し、明治9年の明治天皇のご巡幸の折には天皇の前で珍田捨巳らとともに英文暗唱を行った。明治8年に宣教師イングから最初に受洗した14名の義塾生の一人である。大学予備門を経て、東京大学医学部に進んだが、英語能力がずば抜けており、英語の授業はすべて免除され、その時間を利用して、理学部にいたモース教授の生物進化論などの講義を受けた。後に生家で開業し、養生理論を紹介したり、弘前市長などになった。弟の三男甚も優秀で、東奥義塾に入学したばかりの13歳の時に珍田や山鹿元二郎らとともに受洗した。当初は兄についで医学を志したが、途中から東京大学文学部に転じてドイツ文学を専攻して、卒業後は各地の官立高等学校で教えた。この兄弟は、伝道師の道を選ばなかったが、熱心なキリスト教徒であり、また「田舎新誌」(竹栖社発行 ヤブ医者のすみか)という漢文や和歌を載せた同人誌を出すような文化人でもあった。綾の父、伊東家久は同じ弘前藩典医の北畠家からの養子で、長男春益は22歳の若さで亡くなり、長女りょう(良)は斎藤連に嫁ぎ、次女ひでは体の弱かった母もとの代わりに家事を行い、二男重、三男基、三女ひさは今家に嫁ぎ、その長男邦器は新聞記者となった。四女あや(綾)が今武平と結婚して、東光、文武、日出海の三人の子供をもうける。

 こうした教育熱心な家庭に育った綾は、当時の女子としては最も高い教育を受けた。朝陽小学校卒業後(?)、函館の遺愛女子学校に進学した。遺愛女子学校は東北以北で最古の女学校で明治15年にメソジスト宣教師ハリスにより創立された。おそらく綾はその1回生あるいは2回生であったと思われる。小さな手こぎ舟で津軽海峡を渡り、外人宣教師から直接英語を習い、賛美歌を歌った。弘前からも多数の女子がここで教育を受けた。特に1、2回生の多くは弘前の出身者で占めた(明治19年に遺愛女学校の分校を弘前に開設、弘前遺愛女学校)。多くの場合、生徒は在学中に受洗したので綾もキリスト信徒であった可能性が高い。英語教育は徹底しており、綾も相当鍛えられたと思われる。遺愛女子を卒業後は、東京の明治女学校に進み、さらに高い教育を受けた。明治女学校の卒業生には、羽仁もと子、相馬黒光、野上弥生子などがおり、学校の雰囲気はわかる。こういった教育を受けた綾は、いわゆる当時の先進的なインテリ女性だったようだ。今でいうと今東光のお母さんは、ハーバート大学卒業で、英語がぺらぺらといった感じであろうか。さらにメソジスト派の信徒であり、この宗派は規則正しい生活を規範にしていたため、禁酒、禁煙、公娼廃止など、きびしい生活態度を律した。初代弘前市長の菊地九郎も信徒であった母幾久子、妻久満子の双方から、こういった生活態度を求められたので、さすがに閉口したようで、男にとっては酒、たばこ、女、当然ギャンブルなどもっての他のきびしい節制を強いられた。

 今東光も、こういった母親のもと育てられた訳だが、父の仕事の関係で、横浜、小樽、函館、大阪、神戸、東京と転々とする。神戸では関西学院中学部に入るが、おそらく母親がメソジスト派であったため、同じ宗派の学校ということで関西学院を選んだのであろう。ただ思春期を迎えるにつれ、こういった母親に反抗するようになり、結局関西学院も退学、その後兵庫県立豊岡中学校に転校するも、ここでも再び問題をおこし、退学処分となり、以後正規教育を受けることはなかった。弟の日出海は、対照的に神戸一中、暁星中学校、浦和高校、東京大学仏文に進んだ。

 親がえらくて、教育熱心であると、子供はプレッシャーによるのか、それともその反発によるのか、グレることがある。今家とは親類筋にあたる(珍田捨巳の祖父有敬には男子がなかったため、野呂家から有孚を養子にしている。有敬の娘が今家に嫁いだようだが、確認はとれない)珍田捨巳の家の場合も、長男千束は一高を卒業するも、何度も東大受験に失敗し、気を腐らせて、水商売の女と遊ぶようになった。期待された二男は海軍に行くが、軍艦爆発事故で21歳の若さで亡くなる。千束はあまり欲のないひとか、後に家督を継いで伯爵になったが、すぐに弟の秀穂に家督を譲っている。作家タイプにひとで、鎌倉の文人とは親しく、今東光、日出夫、小林秀雄らと仲がよく、よく酒を飲んだようだ。

 父親が船長であったため、長い航海の間、子供のしつけ、教育はすべて母親の綾が受け持った。この母の存在が、よきにつけ、悪きにつけ、今東光の人生に決定的な影響を与えたと思われる。

 写真上は、明治2年当時の伊東家の所在地。伊東春庵は重のこと、隣の伊藤廣ノ進は伊東梅軒のこと。今は養生幼稚園となっている。写真下は、今東光、父武平の生家があった弘前市山下町の今の風景。地図は前のブログで示した。区割りは当時と同じ。

 今東光 関西学院と東光の生涯(矢野隆司著 関西学院史紀要2005)を参考にした。

2010年8月25日水曜日

平田平三、山鹿旗之進



 先のブログで明治期のキリスト教を指導した弘前出身本多庸一と中田重治について書いた。本多、中田とも、当時日本に入ったばかりのキリスト教の熱心な伝道者として活躍したが、藩主、天皇への尊敬や先祖崇拝のような武士社会の伝統を決して捨てることはなかった。先祖の墓参りには違和感はないし、天皇との謁見があれば、一家の名誉とした。武士としての規範、生活様式とキリスト教徒としての生き方が併存したのである。このような例は、他の弘前出身の信徒にも見られることで、ここでは二人の人物を紹介したい。

 平田平三(1860-1933)は、熱心な浄土真宗の信徒であった文助の子として、弘前市茂森新町で生まれた。東奥義塾を卒業後は、東京英和学校に進学し、牧師となり、アメリカに留学、その後は横浜など各地で伝道活動を行った。弟の幸次郎(妻は儒学者工藤他山の次女)の子供にはプロレタリア文学の小説家の平田小六がいる。父文助は毎日仏前で読経していたというほど、熱心な代々の浄土真宗信徒であったから、さぞや息子がキリスト僑に入信するのには驚いたことだろう。平田平三は早い時期から、本多庸一の後継者として期待されており、実際に青山学院の理事長なども務めた。青山学院歴代院長のうち、本多庸一、阿部義宗、笹森順造、古坂嵓城(両親が弘前出身)の4人が弘前出身であることはすでに述べたが、理事長にも弘前出身者がいたことになる。青山学院と弘前市、東奥義塾との関連は深い。平田平三は、メソジスト会派の牧師にはめずらしく、仏教への造詣が深かったのは、子供のころから体に染み付いた浄土真宗の生活規範を忘れられなかったせいであろうか。

山鹿旗之進(1860-1954)の場合は、もっとすごい。山鹿旗之進は、有名な江戸初期の漢学者、兵学者、山鹿素行の直系の子孫であり、東奥義塾在校時に入信し、伝道師を志し、東京英和学校に進学し、牧師となった。入信にあたり、母は「父親が亡くなった間もないのに、事もあろうに異人の学校に入ってヤソ教の勉強をするとはとんでもない」、祖母は「大事な家督相続の跡取り息子が、生まれもつかぬ片輪者になってしまう」と泣きつかれたいう。何とか、親を説得して、明治12年に日本駐在のメソジスト教会総理のマクレーのもとに行き、試験を受け、入学を許可された。後の青山学院の前身、東京英和学校の出来る直前のことで、ペンキ塗りの真っ最中であった当時の神学校は「トレーニングスクール」と言われ、その最初の入学者は山鹿旗之進と前述した平田平三の二人だけだった。青山学院の最初の入学者が、山鹿と平田の二人と言えるのかもしれない。なにしろ開学前に入学したのだから。山鹿素行直系の子孫がキリスト教の牧師になったと当時はずいぶんと話題になったようだ。東京英和学校神学科に入学した5人の中には、平田と山鹿以外に弘前出身の山田虎之助がおり、後に青山学院神学部の教授となった。函館遺愛女学校の1、2回生がほとんど弘前出身の子女で占められていたように、青山学院の前身の英和学校の神学科も弘前出身で占められていたのであろう。プロテスタントキリスト教において、弘前というところは日本でも有数の先進地であった。実際、津軽出身の伝道師は200名以上いたという。なおアメリカ留学から帰国した後の外務次官珍田捨巳は、一時期この英和学校で英語を教えていた。

 弘前藩の藩学は、幕府公認の朱子学ではなく、山鹿素行の学であった。素行の学は必ずしも、陽明学ではなかったが、幕末に出現した私塾では、時代の風潮もあり、その要素が多分にあったのであろう。長州では同じ、山鹿流師範の家を継いだ吉田松陰が数多くの幕末の志士に影響を与えたが、北方の辺境の小藩では、当然討幕運動などを起こす力もなく、明治維新への参加も出遅れた。明治新政府への出遅れ感が弘前の若者のあせりを生み出し、それがキリスト教への傾倒に変質していったかもしれない。そこには私塾で薫陶を受けた知行合一を唱える陽明学的な心理作用が、忽然と家族、親族の反対を押切り、キリスト教徒になった背景としてある。それ故、明治のキリスト信徒は、武士的な面持ちをふんだんに残している。

 ちなみに山鹿旗之進の子孫には、渡辺プロダクション、マナセプロダクションの方がいるようで、ブログに祖父の写真が載っている(http://yaplog.jp/michan0504/archive/474)。また山鹿旗之進の妹、もと子は平田平三に嫁いだ。山鹿旗之進の弘前市富田新町の家は前のブログで示した(2010.5.4)。

 写真は貞昌寺にある山鹿家の墓、下は上記ブログから勝手に持って来た山鹿旗之進の写真である(申し訳ございません)。真ん中の小柄な老人が旗之進である。全く武士の顔である。

2010年8月24日火曜日

長井充ピアノコンサート


 先週の日曜日に家内と一緒に長井充さんのピアノコンサートに行ってきました。いつもよく行くレストランの入口にたまたま長井さんのピアノコンサートのパンフレットがあり、入場も無料ということでしたので、早速、近くの日弘楽器で整理券をもらってきました。

 クラッシックのコンサートに行くのは本当に久しぶりでした。会場は弘前学院大学の礼拝堂で、こじんまりした建物でしたが、100人を越えるひとでいっぱいでした。

 長井さんは1934年生まれの76歳、大阪音楽大学の創始者の孫として、3、4歳ころから英才教育を施され、東京音楽大学に進まれました。大学3年生の時に指が全く動かないというピアニストとしては致命的な病気になられましたが、奇跡的に神の聖霊の力により回復されたとのことです。長い間、武蔵野音楽大学で教職につかれ、コンサートデビューは70歳を越えてからだそうです。

 会場には赤ちゃんや小さな子供もいて、子供のことですから、演奏中も騒ぐこともあり、危惧しましたが、長井さんは一向に構わない様子でした。むしろそういった雰囲気を楽しむように自分の音楽を淡々と演奏していました。

 曲名は、素人を対象にしているため、よく知られた曲を演奏していましたが、非常にリラックスした演奏で、派手さはないが、本当に感動しました。本人曰く、若い時より手が動くようになったと冗談でもなく語っていましたが、本当でしょうか。最近のピアニストは譜面を正確に機械のように引くため、演奏自体はすごいと思ってもそれほど感動もありません。長井さんのピアノは、ショー的な要素が少なく、それだけこういった小規模な会場の雰囲気もあり、心にしみ込む感じがします。観客からのリクエストにも答えてくれ、それを演奏していただきました。最後まで大変家庭的な雰囲気で演奏会は終わりました。とくにベートベンの月光は、ドラマティックな演奏ではありませんが、何だか涙がでました。

 受付で長井さんのCDを買って、家でも聞きましたが、それほど感動はなく、やはりライブ、それも小さな会場で聞くのがいい演奏家なのでしょう。同じようなことは他のひとも言っていました。たまにはライブの演奏も聞きにいくべきだと感じた次第です。

 こういった演奏会を企画し、実行するのは大変だったと思います。関係者の方々にいい演奏が聞けて大変感謝します。

 YoutubeにElly Neyというドイツのベートベンピアニストの月光の3番がありました(http://www.youtube.com/watch?v=5z-NlloM7TE)。82歳の時の演奏です。ほとんどスコアーがあってないような演奏ですが、妙に心に残ります。画家もそうですが、若い時のようには華麗な演奏はできなくとも、芸術家は年齢に沿った演奏ができるのでしょう。当たり前のことですが、細密な絵がよくて、大雑把な絵はよくないというのは芸術とは全く関係ないことです。あるブログに長井充さんはピアノをもっていない日本で唯一のピアニストで、アパートで古いキーボードで練習していると紹介していましたが、まさかそれはないでしょう。

2010年8月23日月曜日

北欧陶器 4




 インターネットオークションを初めて5、6年になりますが、最近のオークションは管理がしっかりしているせいか、これまでとんでもないものをつかませられたことはありません。どの出品者も連絡はきちんとしており、梱包も厳重にして送付されてきます。よくインターネットオークションでだまされたという声も聞きますが、私の場合はこれまでそういった経験はありません。

 よくチェックするのは北欧陶器ですが、ここ1、2年は北欧陶器も人気がでて、おそろしい位高くなっています。最近ではあまり掘り出し物には当たりません。つい最近、同一出品者からStig LindbergのGustavsberg のstudio ものが4点出品されていました。ファイアンス焼き の2つの変形皿とポット、もう一つは”Falling leaves”(枯葉)シリーズの花瓶でした。どれも1000円スタートで、手書きのスタジオものは人気があるため、かなり高値の落札と予想しました。この中で花瓶があまり見たことがなかったので興味を持ちました。

 以前は終了時間ぎりぎりまでねばり、秒単位で落札したりしていましたが、競い合いになると意外に張り合うもので、当初の予算より高く、買うこともありました。そこで最近では、自分の決めた価格を早い時間から入札して、終了までに高値更新されたら、運がなかったとあきらめます。

 気にいったものを見つけると、それをインターネットで検索して大体の値段とコンデションを調べます。コンデションにより値段がかなり違うものとそうでないものがあります。日本のショップは随分高い値段をつけているので、大体その1/4の値段を入札価格と決めています。

 この花瓶については、スウェーデンのCOOPで110周年を記念して、このデザインのマグカップとキッチンタオルが昨年発売され、人気が出ています。オリジナルのものはもっと人気があるだろうと思い、同じ花瓶を画像検索するとスウェーデンでのつい最近2010.7のオークションで、3300KRの値段がついていました。日本円で33000円、おそらく日本のショップではその倍の価格ですので、その1/4で大体今回の入札価格となります。

 たまたま4点一緒に出品されたせいか、落札できました。他の3点も大体市価の1/4くらいで落札されたようで、今回のオークションの落札者はみんなラッキーでした。

 届いた品物は想像以上に大きく、重いもので、多少のかけやクラックもありましたが、1940-50年ころのものと思えばしょうがないと思います。ファイアンス焼きの大きなものではこの程度の欠けやクラックはあるようです。何より手書きでこれだけの模様を書くのはずいぶん骨の折れる作業でしょう。底には手書きの証拠であるサインが入っており、絵付けの人のマーク、チュリップ印もかわいいです。ただでかいので棚にも飾れず、床に直接置くと、家内にしかられるので、仕方なく、床の間に飾っていますが、全く似合いません。隣に鎮座するのは五代目の清風与平の染め付けの花瓶で、Stig Lindbergより後の作品と思いますが、画面一杯に描かれた絵はくらくらします。リンドベリ(1916-1982)と五代清風与平(1921-1990)は、はほぼ同時代のアーチストですが、2つの壷を並べると、これほど合わないコンビはないように思えます。底のマークも日本のものは、よくよく見て“清風”と読める程度です。

2010年8月19日木曜日

明治2年弘前地図(星野、今関係)



 こういうブログをしていると、時折読者からの問い合わせがあり、楽しい。

 この前にいただいたのは、日本にのみ存在する論語の注釈本『論語義疏』を研究されている先生からのもので、渋江抽斎らの『経籍訪古志』にこの『論語義疏』が記載されおり、それには「弘前星野某所蔵本」となっている。森鴎外の「渋江抽斎」から、この星野某とは星野伝六郎あるいはその子供金蔵のことと推測し、もしそのご子孫が弘前にいれば写本を持っているのではという問い合わせだった。

 星野の姓は弘前では少なく、電話帳でみても3軒しかない。早速、弘前明治2年地図を調べていく。大まかなところは、すべて写真に収めているので、画像を拡大、回転しながら、すべての画像を調べる。そうすると塩分町のところに「星野伝三郎」の名前を発見する。星野姓は一軒だけであり、星野某は星野伝三郎しかいない。すると3軒右隣に戸沢八十吉の名前も発見する。「渋江抽斎 その89」にある「戸沢がかう云つて勧めた時、五百は容易にこれに耳を傾けた。五百は戸沢の人と為りを喜んでゐたからである。戸沢惟清、通称は八十吉、信順在世の日の側役であつた。才幹あり気概ある人で、恭謙にして抑損し、些の学問さへあつた」の戸沢で、星野とは兄弟で近所に住んでいたわけである。

 たまたま、この星野の家のあったすぐ隣に友人が現在住んでいるので、すぐに連絡したところ、塩分町で古くから住むひとに連絡いただき、現在調査中である。判明できればうれしいが、塩分町では明治2年からずっと住んでいる人はいないようで、仮にいたとしても記憶はないであろう。

 もうひとつは、今東光を研究している方からの問い合わせで、今東光の父方の祖父の住所を探されていた。山下町2番地の今文之助の家ということで調べたが、同所には今宗蔵の名前が見られる。文之助の嫡男の名前である。弘前の町並みは、戦災に会っていないので、基本的には明治2年とほぼ同じであり、住所までわかっていれば探すのは簡単である。今東光の母親のあやは、弘前藩典医の伊東家久の娘であり、兄は弘前市長で医師の伊東重である。伊東の家は教育熱心で娘あやにも当時としては最高の教育を受けさせ、出来たばかりの函館遺愛女学校に行かせ、その後は東京の明治女学校に学んだという。かなり英語は得意であったろうと思われ、キリスト信徒ではなかったかもしれないが、その影響は受けていたと考えられる。当時の女子としては相当なインテリであった。元長町の伊東小児科のところで生まれたとすると、学区は朝陽小学校である。佐藤紅緑と小学校同級生とするが、あやは明治元年生まれ、佐藤紅緑は明治7年生まれで、少し時代は違うようだ。ただ伊東家はかなり奥まで敷地があり、あやさんの思い出に隣にわんぱくな子供がいて、それが紅緑だったという話は、敷地の奥に家があれば元大工町の紅緑の家とは隣というのは十分うなずける。

 地図上で、家を探す際に、難しいのは昔のひとは名前をいくつも持っていて、号も含めて知っておかないといけない点である。また戸主の名前も、早くに子供に家督を譲ることもあり、家系も知っておかないといけない。問い合わせに、こうした情報も伝えてくれると、探しやすいし、こちらも勉強になる。例えば、「渋江抽斎 その41」に登場する平井東堂についても、名は俊章、字は伯民、小字は清太郎、通称は修理、号は東堂となる。塩分町で死去となっているが、地図では平井永二郎となっている。東堂の子供に違いないが、家系がわからないと断定できない。それでも塩分町だけで、星野、戸沢、平井の3名の名前が、森鴎外「渋江抽斎」に登場する。富田町と並んで関係の深い地区である。

 地図には2、3mmくらいの小さな文字でみっしりと名前が書いているので、随分小さな家に住んでいるように錯覚するが、当時の武士の住まいは標準的な敷地で200坪くらいあり、今の感覚からすれば結構大きな家である。先に述べた星野、戸沢、平井、今の家もこのくらいはある。間口は狭いが奥が長く、玄関、平屋の家、その裏が畑あるいは庭になっていたようである。

 明治2年弘前地図は、江戸末期、明治初期の弘前藩の研究、森鴎外の「渋江抽斎」の研究に役立つと思われ、できれば全面公開したいと考えていた。ところが調べると、こういった古い地図では穢多、非人など公開上、微妙な問題が含まれており、他の都市の古地図でも、研究者以外には公開は難しく、また博物館でも展示していない。そのため一旦大学、博物館、図書館に寄付すると、一般人にはとても見ることができないものとなる。地図を見ようにも、閲覧許可書に自分の研究歴や目的を記入して、許可されなければ見ることもできない。実際には大学の研究者以外では、許可されず、アマチュアの研究者は見ようと思っても推薦状なども必要で面倒である。こういった問題があるため、保管については心配だが、しばらく家で預かり、問い合わせがあれば、自己判断で公開したいと考えている。何か公開で不都合があれば、すぐに連絡いただきたい。なお、問い合わせは直接、歯科医院HPの患者用アドレスでメールしてほしい。

 弘前在住の方で星野家についての情報お持ちの方は、是非ともご連絡いただきたい。

2010年8月15日日曜日

中田久吉、重治兄弟





 本多庸一と並び、明治、大正の日本キリスト教史に大きな足跡を残した中田久吉、重治兄弟について触れたい。

 私自身、カトリックのイエズス会系の学校を出ているが、キリスト教関係の知識はほとんどなく、ましては複雑な分派をもつプロテスタン系については、その教義の違いについては全くわからない。その前提の上で、中田兄弟について述べる。

 中田久吉(1859—1904 安政6年—明治37年)、重治(1870—1939 明治3年—昭和14年)は、弘前市北新寺町2番地で生まれた。最勝院より日暮橋を越えたところをすぐに右折して曲がったところである。明治2年弘前地図では、白狐寺門前となっており、寺町の裏にひっそりと12,3軒の家があった。この白狐寺は今では稲荷神社になっており、新寺町から赤い鳥居が続く。比較的下級の武士であったのだろう。

 中田久吉は、できたばかりの東奥義塾で学ぶも、父を早くに失い、自活の道を探るため学校を中退し、明治7年に上京して、下士官の養成を目指した陸軍教導学校に入学した。同時期、一戸兵衛も同じ目的で陸軍兵学寮に入学した。中田久吉は、その後西南戦争に出兵し、重傷を負うも、何とか回復し、金沢の部隊に勤務することになった。ここで金沢教会に通うようになり、信仰に目覚めた。母親の面倒を見ていた次弟が急死したのをきっかけに軍隊をやめ、弘前に帰郷し、そこで小学校の先生をするも、信仰への想いが膨れ、ついに明治17年にメソジスト派の伝道師の資格を得て、本格的な伝道活動を行う。武士、軍人上がりのこの人物の伝道活動は情熱的であり、明治30年ころから弘前教会を中心に、中郡、南群の農村部を手風琴をもって廻り、説教、印刷物の配布を行い、夜遅くまで伝道活動を行った。

 弟の重治はわんぱくな子供であったが、兄の伝道活動について廻るうちに、信仰に興味を持ち、東奥義塾を卒業後に本多庸一を頼り、上京して東京英和学校(青山学院)に入学した。そこでは勉強より、柔道に熱を入れ、学業不振のため退学させられそうになったが、本多庸一のお情けで仮卒業させてもらえることになった。もともと激情的な性格がそうしたのか、あるいは郷土の先輩笹森儀助にあこがれたのか、人の行きたがらないところで伝道したいと、北海道に渡り、千島エトロフ島まで伝道活動を行った。この間、1889年には小館かつ子と結婚する。小館かつ子は弘前藩上級武士の小館仙之助の次女として生まれ、青森女子師範を卒業後、弘前学院などで教えるうちに信仰をもち、熱心な信者となる。後に婦人伝道士となったが、その頃に重治と結婚した。明治2年地図でみると若党町の奥の方に小館の名前が見られる。信仰の篤い二人であったが、千島エトロフ島での生活は困窮を極め、長男を風土病で亡くし、かつ子も病を得て、秋田大館に移る。信仰上の危機であったが、それを乗り越え、1896年に渡米して、そこで後にホーリネス活動に邁進する契機となる精霊体験を得て、1898年に帰国する。その後の活動は、Wikepediaを参考にされたい。英文でもかなりくわしく紹介されている。

 メソジストは、日本ではほとんど廃れているが、アメリカではプロテスタン系のキリスト教では2番目に信者が多い宗派で、メソジストを信仰していた大統領も多い(ちなみにヒラリー クリントンも)。メソジストでは、日課を区切った規則正しい生活方法を推奨し、禁酒、禁煙などかなり厳格な生活を求めた。武士あるいは軍人の気風にあった教義で、弘前では、武士、あるいは知識人を中心に多くの信者を獲得し、弘前は一時、質、量とも日本のメソジスト活動の中心であった。そのため、お膝元の津軽では、多くの教会が今でも存在し、学校活動、保育活動、同和問題や凶作救済活動などを東北でも早い時期から積極的に行われた。一方、昔からの祖先礼拝や天皇に対する尊王の気持ちは、そのまま残され、仏教などの他派のよる攻撃は一部にあったにせよ、それほどひどくなく、また日露戦争においても反戦を唱える風潮はほとんどない。本多庸一の場合、妻みよ子の葬儀に際しては、葬儀こそキリスト教式で行われたが、本多家の菩提寺で先祖代々の墓がある本行寺では、葬列が寺に到着しても開門されず、脇の通用門から通れということになった。交渉の結果、無事に寺門から埋葬できたが、本多は当時の弘前仏教界の高僧であった本行寺の住職ともこれを機に親しくなったようだ(同志社の新島襄の場合は菩提寺の京都南禅寺が許可せず、墓地には入れなかった)。また明治32年にカナダ出身の宣教師アレクサンダーの妻が不慮の事故で亡くなったが、その際も最勝院の理解ある取り扱いで、彼女の墓をここに作ることができた。

 弘前ほどキリスト教と武家社会がこれほど共存している町は少ない。函館や神戸、横浜のような新しく開港された都市でも、キリスト教の普及や学校建設は難しかった。数百年の歴史をもつ城下町弘前が明治の早い時期にキリスト教が発展していったのは、本多庸一、中田兄弟のような武士出身のキリスト教徒の情熱によるところが大きい。同時に上記最勝院のように仏教界、神道などの他宗教も割合寛容な精神で遇したのも影響している。ちなみにメソジスト系の大学というと青山学院大学、関西学院大学が挙げられる。

 写真上は、中田兄弟の生まれた北新寺町界隈である。奥の高いアンテナの立った家の隣あたりになる。昔は裏が池となっていた。写真下は最勝院の墓所にあるアレクサンダー夫人の墓である。付近には高谷夫婦の墓はじめ、多くのキリスト教徒の墓が並ぶ。違った宗派でも墓がないではかわいそうという住職の徳の深さを感じる。一方、この墓も心ないものにより倒され、墓碑の上部が欠けていたが、近年弘前学院100周年事業として整復されたようだ。