2010年1月31日日曜日

山田兄弟23



 山田良政は辛亥革命で戦死した最初の日本人革命家として、孫文はじめ革命の中心メンバーからその死を悼まれ、孫文直筆による3つの碑が建てられた。

 ひとつは、東京台東区谷中の全生庵にあり、もうひとつは故郷である弘前の貞昌寺にある。文面は同じであるが、弘前のものはかなり大きく、谷中のものはやや小振である。谷中の碑は、1913年(大正2年)に建てられ、孫文はじめ、良政の両親浩蔵、きせと良政未亡人の敏子も上京して建碑式に参加した。敏子は英語が堪能であったため、この時孫文と良政の両親の通訳をした。結束博治著「醇なる日本人」によれば、この時孫文は「良政さんが中国革命のために、外国人として初の犠牲者となってくださったことを、全中国国民を代表してお礼申し上げます」と話し、父浩蔵のために、「吾が父の若し」の書を送った。弘前貞昌寺の碑は、それから5年後の1918年(大正8年)に建てられた。孫文幕僚の廖仲愷(廖 承志の父)、宮崎滔天らを代表として弘前に派遣し、建碑式が行われた。

 そしてもうひとつは中国の南京にあるとされている。同書によれば、1927年(昭和2年)11月4日に中国国民党は山田良政の建碑を議決し、孫文の眠る南京中山陵に良政の碑を建立したとされる。良政の碑は、中山陵よりやや離れた丘にあり楓のかなり高い樹が植えられた楓林(ふうりん)と呼ばれる公園のような奥の寺院入口に、十数基の革命志士の碑と一緒に祀られているという。

 これだけはっきりした記述がある限り、山田良政の碑は南京に建立されたのはまちがいない。ただ現存しているかについては不明である。あの南京大虐殺記念館がある南京に、もし中国革命の犠牲になった良政の碑が現存するなら、これは全く対極的なシンボルであり、例え小さな碑であろうとその価値は重い。南京大虐殺に代表される負の遺産だらけの南京に、中国国民を愛し、革命の犠牲となり、さらには孫文から追悼された山田良政の碑の存在は、唯一の日本人の正の遺産であり、今後の日中友好関係を考える意味でも意義深い。

 この碑を存在はニュース価値もあろうかと、日本で最も資料の豊富な愛知大学に問い合わせたが、無回答であった。そこでインターネット上で南京日本人会という団体を知り、そこに問い合わせたところ、そういった碑については全く知らない、資料があれば送ってほしい、調べたいとの返事をいただいた。その後3か月すぎても返事がないところから発見が難しいのか、あるいはすでに無くなった可能性もある。孫文を深く尊敬し、山田とも交流のある松井大将、旧日本陸軍が壊すことはないであろうし、中国革命の志士の碑と一緒にあれば中国人が壊すこともなかろうが。ただ文化大革命の凶暴性を考えると、あの時代に破壊された可能性もある。

 あるとすれば、中山陵からそれほど離れていないこの山のどこかにあろうと推測し、1928年の国民政府により決議された国民革命軍陣亡将士公墓がある南京霊谷寺(灵谷寺)周辺などをGoogle mapやPanoramioなどで探しているが、それらしいものはない。弟の山田純三郎は生前、死ぬ前に中山陵に行き、孫文の墓にお参りしたい、自分の墓も孫文の近くに建ててほしいと祈願していたが、かなわぬまま亡くなった。せめて兄良政の碑が南京にあれば、その碑に献花し、孫文と一緒に撮った写真を置くことは、没後50年を迎える純三郎にとってなによりも大きな供養となろう。

 反日一辺倒から友好、パートナーへと日中関係の転換時期に当たり、こういった話題は大きなトピックで、ニュースバリュも高いと思われる。中国での絶大な調査力をもつ朝日、読売などの大新聞社による調査を期待したい。

2 件のコメント:

kasatetu さんのコメント...

丁寧に取材された情報をありがとうございます。
 私のブログに引用させていただきました。 ご了解をお願いします。

http://kasatetu.exblog.jp/6167814/

広瀬寿秀 さんのコメント...

こちらこそ勝手に谷中の写真使いまして申し訳ございません。負の遺産だらけの南京の良政の碑があれば痛快です。