2012年4月12日木曜日
佐藤愛麿、工藤勝彦 暗号解読
佐藤愛麿(1857-1943)は、津軽藩の重臣山中兵部の二男として、大浦町で生まれた。今の弘前中央高校があるところである。幼名を次郎といい、藩校で漢学と英学を学んだ後、新しくできた東奥義塾に入学した。珍田捨己より1歳年下だが、義塾では同級生で、明治9年(1867)には明治天皇が青森に来られた折の天覧授業では珍田らとともに、「愛」と題する文章を暗誦した。明治8年にはキリスト教の洗礼を受け、明治9年には佐藤清衞の養子となり、佐藤姓となった。
明治9年(1876)に、佐藤、珍田、川村、那須らとアメリカのアズベリー大学に入学し、明治14年に優秀な成績で卒業し、帰国した。すぐに佐藤は外務省書記官の仕事につき、その後ワシントン公使館、ロンドン公使館の書記官などを務めた後、明治26年には外務省電信課長ならびに翻訳課長となった。
ここまでは「中学生のために弘前人物志」からの抜粋であるが、実はこの電信課長というのは暗号解読セクションのトップであり、ここでの活躍が佐藤の功績の中でも群を抜いている。今でもそうであるが、海外大使館、公使館から母国への連絡はすべて電信で行われ、中央の指示を受けていた。これがすべてばれてしまうと大きな外交の不利益を被るため、暗号電信で連絡を行っていたが、同時に他国の電信情報を解読できれば、大きな国益となる。このセクションで佐藤は、清国の暗号解読に成功し、明治28年の下関での日清戦争後の講和会議では清国側全権李鴻章の暗号電信を知り得たため、下関条約は日本側にとって非常に有利なものとなった。この功績により佐藤愛麿は勲四等旭日小綬章を貰った。
日露戦争においては、逆にロシアにより日本の暗号が解読されていたようだったが、情報がうまく生かせられず、日本の勝利となった。当然、ポーツマス会議には英語が得意で、暗号解読のスペシャリストの佐藤を随行員として連れていった。外務省本省には親友で義理の弟となる珍田がいるため、意志の疎通が欠くことはなく、少なくとも外交情報の遺漏はなかった。この功績により勲二等旭日重光章を授与された。ポーツマス会議後は、オランダ特命大使、オーストリア特命大使などを歴任し、外務省を退官した。その息子の佐藤尚武は後に外務大臣となった。
弘前出身のもう一人の情報機関畑の人物として、工藤勝彦がいる。日露戦争中にロシアの暗号解読、スパイ活動のため、着目したのが、ロシアの隣国で長くロシア研究の歴史のあるポーランドである。そこで1926年のポーランド軍参謀本部のソ連の暗号解読の第一人者のコヴァレフスキーを招聘し、日本での本格的な暗号解読の科学的な方法が伝授された。それを受けて1926年に百武晴吉が1年間、さらに工藤勝彦大尉が9か月ポーランドに留学し、訓練を受けた。これにより日本陸軍の暗号解読技術は飛躍的に発達し、中国国民党、共産党の暗号はほぼ解読できたという。工藤勝彦は太平洋戦争中に亡くなったようで、最終階級は工藤勝彦陸軍少将、南方軍特種情報部長となっている(一階級特進、おそらく大佐)。満州事変においては支那派遣軍特情班長として中国国民党軍のほぼ70%の暗号を解読し、その後の日本軍の作戦に抜群の功があったとして情報部としては初めての金鵄勲章を授与された。英米は同盟国の中国国民党の暗号は日本陸軍により解読され(1941年ころには80-90%の暗号が解読できた)、筒抜けになっていると認識したため、結局重要な情報は教えなかった。一方、共産党の暗号形態はソ連に準じていたため、なかなか解読できなかったし、解読できてもしばしば暗号を変えたが、国民党ほどではないにしても、それでもかなりの暗号は解読していた。さすがにアメリカ軍の暗号の解読は、大学の優秀な数学者を動員してもなかなか難しかった。
弘前の生んだ二人のインテリジェンスを紹介した。上の写真真ん中にいるのが珍田捨己、下の写真は佐藤愛麿である。
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