今日は連休初日、天気もよく、家内と一緒に弘前公園に桜祭り見学に出かけた。遅咲きと聞いていたが、外堀の桜もほぼ満開、城内も五分咲きくらいであった。旅行会社によれば、個人客の多くは、遅咲きの情報を聞き、ホテルの予約をキャンセルし、連休後半に移したが、団体客については東北の復興にお手伝いしたいとのことで、お客さんのキャンセルは少なかったようだ。天気もよく、弘前の桜祭りを楽しんでもらえてうれしい。
西堀の端にある紺屋町派出所(消防屯所)がリニューアルされ、一般にも公開されていると聞き、桜祭りのついでに見てきた。以前は放置されたままになっており、かなり破損しており、大変心配していたが、きれいに修復されている。ちょっとした資料館となり、新たな観光コースとしては十分に活用できよう。弘前警察署の派出所が併設された火の見櫓のある珍しい建物で、三沢の寺山修司記念館の最初のHPではここが寺山修司の生誕地として紹介されていた。その後の調査でこことは少し離れたところの生まれであることがわかり、「旧紺屋町消防屯所」館内にも寺山修司の生誕地が地図とともに紹介されている。生誕地の決め手の一つに、2軒隣に住んでいた弘前歯科医会の川村志郎先生の証言も大きい(子供のころ、2軒となりにいた警察官のところで男の子が生まれた)。
館内には他にも紺屋町の紹介のために2つの古地図の写真が展示されていた。私自身、びっくりしたのは、その一つが明治3年8月現在となっている弘前城下絵図であった。このブログで何度も紹介した明治二年弘前絵図は明治2年10月現在図となっていることから、この10か月後に作成された地図といえよう。八木橋文庫所蔵となっているため、帰宅後調べると歴史家八木橋武實氏が弘前市立図書館に寄贈した膨大な量の書籍のひとつであることがわかった。すでに紹介したように弘前市立博物館には明治4年士族在籍引越之際地図があり、これは明治4年7月現在図となっている。他には弘前市立図書館にはこのさらに写し、おそらく明治ももう少したった時期のものがある。
とすれば、まず私が弘前市立図書館に寄贈した明治2年弘前絵図(10月)の後に、八木橋文庫の明治3年8月、その後、弘前博物館の明治4年7月の、さらに弘前市立図書館のその写しの計4枚の明治初期の弘前地図があることになる。残念ながら、今回見た明治3年のものはかなり不鮮明なもので(掲載した撮影した写真が不鮮明ではない)、細部について明治2年のものと比較することはできない。元の地図がカラーなのか、細部はどうかなど全くこの写真ではうかがいしれないが、それでも弘前城周辺を比較すると、明治2年のものに比較して明治3年のものでは省略、手抜きがあるようだ。コピー機のない時代、オリジナルを必要性に迫られ、手早く写したと思われる。実物を見た訳ではないので断定はできないが。
何度もこのブログで言っているが、こうした地図は色々なところで使われ、現にこの旧弘前消防屯所でもパネルで紹介されている。それがこんなに不鮮明なものでは意味をなさない。少なくとも地図類に関しては図書館、弘前市でデジタル化してほしいものである。そうしないと万一であるが、火事などで資料が喪失した場合、大変なことになる。オリジナルの資料の保存は当然であろうが、貴重資料に関しては、是非ともデジタル化してバックアップを作ってほしいものである。費用に関しては、弘前の印刷屋に頼めば6-7万円くらいでしてもらえる。図書館も予算が厳しいであろうが、是非弘前市の方でも予算をつけてほしいものである。おそらくこういった貴重書類、図のデジタル化事業に関しては、うまく研究計画書を作成すれば文科省の科研費からこれくらいの費用は捻出出来るであろう。日本の役所というのはおもしろいところで、予算は年度末には完全に使う仕組みになっているため、1月ころになると各大学、研究機関に研究計画書の提出を求められる。予算の応じた何種類かの研究計画書を作成しておき、すぐに予算案を提出すれば、科研費とは別の予算がつくことも多い。図書館ではどういう制度かは知らないが。
ある研究者が弘前市立図書館にある私の寄贈した明治二年弘前絵図の閲覧を希望したところ閲覧不可と断られたと聞いた。最終的にはねばって何とか閲覧はできたようだ。この理由として、図書館側は明治二年絵図には人権上の問題があるので閲覧不可としている。「絵図学入門」(杉本史子ら編、東京大学出版)にも少し記載されているが、古地図の展示システムと人権にかかわる問題は複雑であり、一般公開についてよりよい解決法を期待したい。一方、こういった大型の絵図、特に折り畳む式のものは、閲覧時に破損する可能性があるため、一部の研究者のみにだけにしか実物は閲覧させないことが望ましいが、この規制もあまり厳しいと我々のようなアマチュアは全く見ることができなくなる。
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