ブログをみている方から三浦才助のことで問い合わせがあった。こういった問い合わせは本当に有り難い。幕末、弘前藩は海軍を作るために藩下の優秀な若者を江戸に留学させていて、その一人に三浦才助の名前がある。最初、測量学を勉学するため、相馬吉之進、長谷川健吉、成田五十穂らとともに江戸に行くが、途中から英学の勉学のために三浦才助は福沢塾に入塾する。慶應義塾の慶應3年7月、入塾者の中に弘前藩の三浦清俊という人物がいるが、おそらく三浦才助が改名したのであろう(同時期に弘前藩出身の二人の三浦が義塾に入学する可能性は低いし、後述するが三浦清俊は測量士になった。江戸に測量の勉強に来た才助と一致する)。
弘前藩記事の中に次のような記載がある。
弘前藩賞典四十五 明治3年6月 「御賞典 金五拾両 予備銃隊源次郎三男 成田五十穂 筆生次席忠太郎弟 三浦才助
右両人奥羽騒擾形勢不測之時ニ当リ、醍醐殿ヘ属各所奔走、尽力之段、其力之段、其功不少、(にんべんに乃)而為其頭書之通ツツ被下候事」
戊辰戦争では、醍醐少将のところに属して活躍したようだ。同僚の成田五十穂は三浦才助と同様に、慶応義塾で学び、後に弘前の東奥義塾の創立者のひとりとなる。
上記賞典から三浦才助は三浦忠太郎の弟で、忠太郎の名は明治2年当時、弘前の緑町に住んでいた(図参照、ちなみに私の家はこの三浦家から30mくらいの近さです)。
三浦才助が具体的にどう戊辰戦争に関わったかというと、江戸を占領した明治政府軍は、続いて東北地方の攻略に向かった。まず奥羽鎮撫総督府を組織し、東北各藩の説得に乗り出した。仙台藩は東北地方の列藩会議を主宰し、奥羽鎮撫総督府に対して会津藩の赦免を懇願したが、それが政府軍の参謀・長州藩の世良修蔵によって握りつぶされると、その傲慢な態度もあって、仙台藩士・姉歯武之進らによって殺害されてしまう。さらに総督九条道隆や参謀醍醐忠敬らの身柄を確保して、仙台城下に移した。この醍醐の従者であったのが、三浦才助である。殺気立つ仙台藩士により醍醐、三浦らもかなり危険な状況であったが、福島藩の取りなしで、事なきを得た。上記賞典録から成田五十穂も行動を一緒にしたと思われるが、記載はない。
この暗殺事件が、奥羽列藩同盟の成立、会津への悲惨な戦いに繋がっていくのであるが、この事件は慶應4年4月であり、当時まだ弘前藩は政府側につくか、奥羽列藩同盟につくか帰順が揺れていた時期であった。どうして弘前藩士の三浦がひょっこりと醍醐のところにいたのであろうか。時期としては慶応義塾に入学して9か月目で、ある意味まだ学生であった。脱藩して参加した訳ではなく、おそらく藩の密命を帯びて、同僚の成田五十穂と一緒に政府側の一員として参加したのであろう。多分にこういった暗殺事件が起こるとは夢にも思わなかったであろう。
この次に三浦の名前が登場するのは、名を変え、三浦清俊で明治8年の内務省地理寮による「関八州大三角測量」に参加した。どうやら明治維新による士分喪失により、東京に出て内務省で測量の仕事をしたのであろう。この「関八州大三角測量」とは、近代地図の草分けというべきもので、お雇い外人のイギリス人マクヴィンが指導にあたり、那須野ヶ原に正確に図られた三角形の一辺、那須基準を作った。「一辺とこれに接する二角がわかれば、他の二辺が求められる」という三角形の定義を利用した測定法で、それだけ最初の基準線は正確に測る必要があり、アメリカから購入したヒルガード式基線尺というわずか4mのものさしを使い測定した。那須基準の場合、全長を知るだけで、2500回の測定、5回繰り返すと12500回の測定が必要となる(「地図を楽しもう」山岡光治著 岩波ジュニア新書)。その後、三浦は明治10年には改称された内務省地理局に在籍し、明治15年には小笠原の測量を行い、「小笠原島誌(附録図)」を著し、さらに日本経緯度原点となるチットマン点の経度測定に従事した。
三浦才助(清俊)は明治初期の日本測量史における過度期の恩人であり、以後は正式な大学教育を受けた人々により学問が発達していったのであろう。危うく仙台藩士による斬殺されかかった前半生と測量に打ち込んだ後半生のギャップがいかにも明治の時代を感じさせる。
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