2013年7月4日木曜日

石坂洋次郎 塩分町


 「青い山脈」などで有名な小説家、石坂洋次郎は、明治33年1月に弘前市代官町八十六番地で生まれた。今の弘前バッテリー当たりとなる。その後、小学校から高校卒業までは塩分町に家にいたため、石坂洋次郎にとっての故郷、弘前の風景と言えば、この塩分町の家から見た岩木山の四季の姿であろう。雪の岩木山、紅葉の岩木山、春、夏の岩木山、毎日、自分の部屋のある二階からその姿を見ていたのであろう。
  
 「創立百二十周年記念 弘前市立朝陽小学校 同窓会名簿」がある。大正二年卒業生の中に石坂洋次郎(弘前市塩分町)とある。番地の記載はない。同級生に野村Nという人物がいて、家が隣同士で仲のよい友人であった。二つの家は柵で隔てられていたが、お互いの部屋がある二階同士を糸電話で結び、毎日、色んなことをしゃべったという。この友人の住所が、塩分町17番地、ところが昭和2年の同じく朝陽小学校を卒業したこの男の弟(四男)の住所をみると、塩分町34番地となっている。大正15年に卒業した妹の住所が、塩分町17番地となっているので、昭和になって家屋はそのままで番地名変更となったのであろう。こういったことは多い。

 「石坂洋次郎 映画と旅のふるさと」(石坂洋次郎文学散歩 渡部芳紀)によれば、塩分町の石坂の住所は、塩分町33番地となっている。ということはこの友人とは隣同士となる。

 昭和十年の弘前案内圖をみると、石坂の家は野村輿一の家の隣、赤石國雄宅となる。塩分町の最も西の四つ角の家である。上記の糸電話の話から、野村家の屋敷は敷地の前に、石坂家の屋敷は敷地の後ろにあったのだろう。Nは後に土木工学のエンジニアとなり、関門海峡トンネルの建設に携わるが、となると石坂とは小中学校(弘前中学校)とも同級生であったのだろうか。石坂自身、この塩分町の家を元家老屋敷だったとしているが、明治二年弘前絵図では、小山内滴宅となる。ただ昔々は家老、高倉家の敷地は上白銀町から塩分町まで繋がっていたため、そう呼べないことはない。明治二年絵図に載る高倉良蔵の家は、明治五年に東奥義塾の最初の外国人教師、チャールズ・ウォルフの宿舎として選ばれた。西洋式の窓ガラスがつけられ、珍しさもあって多くの弘前市民が見に来たようだ。昭和十年ころにはこの敷地には、野村家の他にも高橋鉄工所、高木染物店、工藤家などがある。

 今日は、弘前図書館に行って来た。収穫はほとんどなく、新たな情報得るのがますます難しくなっている。北大総長だった今裕の父親、今純三、和次郎の叔父になる今幹斎(1833-1892)の家を以前から探しているが、わからない。おそらく藩医は士族とは若干違う立場のため、載っていないと考えていた。昭和57年発行の「弘前の墓」を見ていると、寿昌院に今幹斎の墓があり、同一の墓として今栄八の墓があるという。明治二年絵図では山道町に今栄六という名がある。栄八と栄六が同じかは実物を確かめなくてはいけない。また同書には今栄八は日露戦争の戦没者であるとしているが、一切記載はない。

 幕末の数学者、佐藤正行(1817-1883)や相馬吉之進孝恭についても調べているが、情報がない。













2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

突然のコメント失礼いたします。

幕末の数学者で思い出したのですが、旧弘前藩士から東奥義塾数学教師として活躍した中舘広之助氏と、広之助氏の子で、青森県初の法医学者として下山事件などの司法解剖を行った中舘久平氏はご存知でしょうか。

広瀬様はお医者様でいらっしゃるようなので、少しでも興味を持って頂けたらと思い投稿しました。

広瀬寿秀 さんのコメント...

中舘久平については、少し知っておりますが、広之助については全く知りませんでした。新寺町の白狐寺門前に中舘喜十郎という家が明治二年弘前絵図に見られます。中舘という姓は珍しく(一軒のみ)、また中舘広之助の住所は新寺町ということなので、喜十郎が広之助の父あるいは祖父と思われます。算法活機という40巻の数学書を書いた相馬孝恭吉之助という調べており、明治になって義塾の数学教師になったとも言われますが、記録がありません。中舘広之助についてお知りでしたら、コメントではなく、メールでお知らせくれれば、幸いです。よろしくお願いします。