東奥義塾の柔道部の歴史は古い。少なくとも明治30年以前には柔道(術)部があったようで、『写真で見る東奥義塾120年』には明治31年の柔道部の写真が載っている。
写真には山田兄弟の四男、山田四郎の凛々しい姿がある。さらに山田四郎の叔父、拓殖大学の名物教授、佐藤慎一郎の父、佐藤要一の姿もある。島川勉については『西津軽郡深浦町の人。素封家島川一寛の長男。早稲田大学卒業。在学中から柔道が強く、卒業後米国に渡り柔道の普及につとめる。帰国後昭和14年から同16年まで深浦町長をつとめた。英会話に堪能で、また料理も上手であった』とある。山田兄弟の次男、晴彦は島川千代と結婚するが、千代は島川勉の妹かもしれない。日本最高の格闘家、前田光世は明治12年生まれで、早稲田大学から米国に柔道普及に行ったが、島川も3歳後輩で、同じような経緯で渡米した。
前田は明治27年に弘前中学に入学するが、2年生になると有志と共に弘前藩柔道師範であった斎藤茂兵衛に本覚克己流の柔術を学んだ。さらに明治28年6月には斎藤を柔道師範として弘前中学に柔道部が作った。日清戦争後では弘前では尚武奨励のムードが強く、剣術、柔術が盛んで、道場も多くあった。東奥義塾は藩校に流れをくむ学校であり、武芸への活動は盛んで、おそらく柔術部、あるいはそれに類した活動は、弘前中学校より早かったと思われる。稽古館では学問と武術は両立して教えられ、寛政年間の和術は師役、唐牛甚左衛門、添師役、添田弥兵衛、斎藤茂兵衛、木崎忠次となっている。東奥義塾の柔道部(柔術部)の記載が東奥義塾再興十年史に始めて登場するのが、明治40年8月で『本塾出身柔道教師山形張蘇、島川勉を招聘し柔道夏季講習会を開いた』の記載がある。写真の山形とは山形張蘇という人物であることがわかる。斎藤茂兵衛の道場については以前(片山町、2012.1.26)、述べたが、師役の唐牛甚左衛門については、明治二年弘前絵図では、今の弘前郵便局の隣、レンタカー会社のあるところに斎藤甚助の名がある。昔は弘前女学校があった。弘藩明治一統誌 人名録によれば、斎藤家は、弘前藩の柔術師範で、代々、本覚克己流の柔術を自宅で教えていたが、幕末には修武場にて教えたとある。敷地は広く、自宅にも道場があったのであろう。
さら再興十年史の対馬邏の回顧録では「柔道は先輩前田英世氏によって土台は築かれしならんも前田亀千代君の如き在学当時已に他校試合の場合は審判の位置に就かれた程であったから県下中学校には歯の立つものは一校も無かった。それに明治40年の夏休から澤先生、新城先生を毎年講師として招き練習したから一層上達して多数の有段者を出しています」とある。ここでの前田亀千代とは『明治18年〜昭和39年(1885-1964)弘前の人。俳号冬川。明治41年東奥義塾卒。二高から京都大学法学部に進み、卒業後、大正8年京都で弁護士を開業。京都市弁護士会長をつとめた。なかでも近畿青森県人会京都支部長として郷土出身者のためにつくすことが多かった。スポーツを好み、俳句をよくした』とある。どういうわけか孫文に協力した日本人として名が挙がっている。
前田光世の柔道は、ブラジルで進化をとげ、後年グレイシー柔術として日本に知られるようなった。前田の柔術は、立ち技主体の柔道では大柄な外国人格闘家とは戦えないので、前田が自分で講道館柔道を進化させたとする。すなわち初期の嘉納治五郎の講道館柔道は今の柔道とは違い、多くの柔術の技、寝技、関節技を多く取り入れられ、前田はこれらを改良して試合をした(柔道の普及と変容に関する研究—グレイシー柔術に着目して、谷釜尋徳、2012)。ただこの論文には前田の弘前での柔術修業(本覚克己流)については全く触れられていない。前田が早稲田大学入学当初の1年間で二段昇格という偉業は、講道館柔道を習う前から柔術の相当な技量があり、当時の講道館柔道家には歯が立たなかったことを意味する。前田の柔術は、すべて講道館柔道によるものではなく、本覚克己流柔術や日下真流などの古流柔術の基礎の上に講道館柔道があり、海外で試合を重ねるうちに、より実践的な柔術の使うようになった。
東奥義塾では再興後、もっぱら剣道を重視し、柔道部の再興は後年になってからである。明治31年の柔道部の写真の中の市川宇門、小館俊雄らは、後年剣道で名をはせた。
弘前の武術研究稽古会「修武堂」のメンバーによれば、昭和40年代後半まで、本覚克己流の柔術道場が現存したという(大津育亮師範、外科医)が、現在はその内容については全く不明となり、先の稽古会で復元が試みられている。前にも挙げた昭和初期の東奥義塾を写した映画で見られる剣道、柔道は一部、古武術であり、義塾では、日本剣道連盟、講道館の競技武道と併用して古流武術を教えていたのであろう。
10 件のコメント:
広瀬先生、三上 直樹です。ごぶさたしております。
この投稿にインスパイアされて、私も前田光世のことを書きました。ご高覧いただけると幸いです。
http://hirosaki2015.blogspot.jp/2014/07/blog-post_27.html
久慈に三船十段記念館があるとは初めて知りました。熊本、荒尾の宮崎兄弟資料館といい、弘前では偉人の顕彰には無関心のようです。知人に聞くと、あまりに偉人が多く、一人を顕彰すると他の人はどうしてしないかとなり、結局は殿様と横綱しか銅像は立てられないと言っていました。競技武道でない、古武術を若者に習わせるような活動があってもよさそうです。弘高、義塾でもいいのですが、学校の部活で週に2、3回でも習えると、結構、入部者多いのではと思います。
次のブログ内容で思いあたることがありますので参考までに、「弘前藩の柔術と東奥義塾」の中{本覚克己流の柔術道場が現存したという(大津育亮師範、外科医)が、」ですが、山王町のの大津外科の敷地に柔術の道場がありました。しかし、外科医は大津運司郎先生で道場を開いていたのは医者でない弟とだと聞いています。大津先生の息子(現おおつ歯科の院長)さんが柔術を習っていたような記憶があります。
投稿ありがとうございます。後日、同業者で知人である大津先生に確認しましたところ、仰る通りでした。大津匡先生も子供のころから、この道場で柔術を少し習ったようですが、今ではすっかり忘れたということでした。大津育亮師範は確か、学校の先生だったようです?。
たまたま、「大津育亮」とネットで検索をしたのがきっかけで、このブログを拝見致しました。
私は、大津育亮の孫です。
祖父が道場を構え、柔道を教えていたという事は聞いておりましたが、こんなにも偉大な方だったとは知りませんでした。
祖父は、外科医でもなく、学校の先生でもありません。公務員で弘前市役所に勤務しておりました。
3月に定年退職を控えていた12月、59歳の若さでこの世を去りました。
祖父の事を覚えていてくれる人が居てくれたという事実がとても嬉しくて、ついつい、コメントを投稿させて頂きました。
広瀬先生を初め、皆様、本当にありがとうございます。
私も地元であるこの弘前が大好きです。
大津育亮さんについては、知人の大津匡志先生から正しく聞いておりました。メモせず、外科医、先生と全く違う職名を記載しまして申し訳ございません。大津先生も昔、柔道を習ったといっていましたが、昔の柔術の技については忘れたようです。弘前でも古武術を復活させようという運動がありますが、資料がなく、困っています。もしそちらに古武道(柔術)の資料がありましたら、ご協力ただければ助かります。
Hello - I am sorry to reply in English.
Thank you for this interesting post, even though google translate is not the best.
I am interested in the Saito family jujutsu teachers - could you refer me to where I may find out more about them? I am especially interested in the period 1910 - 1939.
Thank you.
Please send me a E-mail direct. My address is hiroseorth@yahoo.co.jp
はじめまして。
たまたま思い出して本覚克己流を検索したところこちらのブログにたどり着きました。
実は父が大津師範から若い頃本覚克己流の指導を受けておりました。伝承された巻物もあったはずです。父方は津軽藩に仕えた武家で、実家には今も先祖代々からの鎧もございます。
大津先生から指導を受けている当時の写真も見たことがあります。
懐かしく思いコメントさし上げました。
このブログに関しては、多くのコメントがあり、それらも一つの資料となっています。柔術のような無形のものについては、一度、絶えるとなかなか復活は難しいようです。それでも昭和になってもまだ弘前の地に古武道が残っていたのは奇跡的です。今であれば、ビデオなどの手段を用いてある程度、記録も残せたのでしょうが、残念です。
もし写真があればお送りいただければ幸いです。
アドレス
hiroseorth@yahoo.co.jp
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