2015年3月15日日曜日

笹森順造、卯一郎兄弟の生家







 笹森順造は、東奥義塾の再興に尽力した人物として知られるだけでなく、戦中は青山学院の学院長として軍部ににらまれていた青山学院を何とか存続させ、戦後は衆議院議員を4期、参議院議員を3期勤め、復員庁長官、賠償庁長官として戦後の苦しい時期、シベリア抑留邦人の帰国、賠償金問題など占領軍との厳しい交渉を行ってきた。さらにGHQにより禁止されていた剣道など日本武術を復活させ、その後の東京オリンピックの柔道正式種目化に活躍した。兄の笹森卯一郎も長崎、鎮西学院の中興の祖として、つぶれかけていた学院の再興に尽力し、兄弟そろって東の東奥義塾、西の鎮西学院を再興させた人物である。

 父、笹森要蔵は弘前藩の槍師範であったが、開明的な人物で、当時、弘前で流行していたキリスト教への理解も早く、長男の笹森卯一郎は東奥義塾を卒業後に、アメリカのデポー大学で哲学を学び、博士号を取得して、長崎鎮西学院に招かれた。惜しいことに44歳の若さで亡くなるが、鎮西学院ではその功績を記念して笹森卯一郎記念体育館がある。弟(六男)の順造もまた兄を見て、弘前中学から早稲田大学に進学し、その後、渡米してアメリカのデンバー大学を失業、記者や南カリフォルニア日本人会書記長をしていたところ、東奥義塾の再興の話が日本で持ち上がり、その塾長とし請われて帰国した。塾長として全校生徒に剣道を必須科目として教え、生徒からも慕われた。昭和14年には、青山学院の理事をしていた米山梅吉からミッションスクールで軍部ににらまれていた青山学院を何とか救ってほしいという強い要望に答えて愛着ある義塾をやめ、青山学院の学院長となった。兄、浅田良逸(男爵浅田家に養子)は陸軍中将であり、その協力もあって青山学院の危機を救った。

 この笹森順造、卯一郎の生家が今、空き家となっている。笹森の生家は、武家屋敷がある仲町の一部、若党町にある。戦前、笹森家は住む人がいなくなり、友人に売った。その子孫がそこで一人で住んでいたが、高齢のため昨年亡くなった。親戚の多くは県外に住むため、その土地と家屋をどうするか宙に浮いている。明治二年弘前絵図では笹森要蔵、文化3年(1806)の弘前文間眞図では竹内家、寛文13年(1673)の弘前中惣屋敷絵図では小林?家と所有者は変わった。寛文期は広い敷地であったが、その後、二分し、再度、明治以降、隣家を買い求め、土地の広さは約2倍になったが、昭和60年代には再び半分売り、今は文化期の敷地となっている。仲町伝統的建造物群保存地区調査では、建物は江戸時代のもので、一部増築しているが、庭の配置などは江戸時代のままである。笹森卯一郎は慶応3年、順造が明治19年生まれであるので、ここで生まれ育った可能性は高い。

 一度、子孫に頼まれ、この家を少しだけ訪れたことがあるが、さすがに江戸時代の建物にそのまま住むには、ことに冬の生活が厳しく、内部は今風に改造していた。門から前庭、玄関と続き、本来なら建物があってその裏が畑となるのだが、この家は向かって右が庭となっている。建物は、一部二階建てになっており、昔見た調査報告書では、玄関右側の部分は明治以降の増築とあり、この二階部分が明治以降の増築かは思われる。屋敷は間口25間、奥行き17.2間、建坪25坪(現在49坪)となっている。内部はほとんど見ていないので、わからないが、弘前図書館には御家中屋舗建家図が残っており、調査により改造部分ははっきりするであろう。右部が明治以降の増築部であっても、笹森家での増築であれば保存部分は異なる。

 こういった直系の子孫がいない伝統的建造物は、相続者が複雑で、その処理に困るが、何とか弘前市、教育委員会、文化庁などでいい解決法を見つけてほしいものである。壊すのは簡単であるが、もう二度と戻らない。昭和60年ころには仲町を中心として多くの江戸期の建物がまだ残っていたが、現存する建物は少なくなってきた。弘前市が、城下町を観光資源としてアピールするならば、これ以上の破壊は食い止めたいところである。特にこの建物は、笹森順造、笹森卯一郎、浅田良逸陸軍中将の生家としての歴史的意味があり、東奥義塾、鎮西学院、青山学院、日本剣道協会にとっても重要な場所であり、何とか子孫にも納得した形で保存してほしい。他の武家屋敷と違い、笹森兄弟記念館としての活用も考えられる。

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