回教徒運動に従事してテヘランで亡くなった益子勇
アルアズハル大学留学(日本人初)
弘前市の養生幼稚園の横にある松陰室については以前のブログで少し紹介した。その際、松蔭室にある偉人棚についても触れた。「養生会百年史」に偉人棚にある陳列品について詳しく記載されているので、説明したい。
この偉人棚は明治42年10月(1902)に「偉人の在世中はもちろん其の死後においても、遠く感化を及ぼすものにして、殊に其人に因縁のある物品は多大な感動を与うるものにこれ有り、もしそれ園児冬期において室外遊戯し能わざる時、あるいは遊びくたびれて園内に帰りし時を見はからい、やや年長の園児を集め、その物品について偉人の実歴談や、逸事を説き聞かせ候わば、ただ園児一時の感興にとどまらず、深く脳裏に印象して、他日成長ののち品性陶治の種子ともあいなるべく存じ奉り候」として、作られた。幼稚園児には、趣意に沿った教育は難しかろうと思うが、ここでは養生会、早起き会の若者に対する講演会などがあり、その折に教材として使われたのであろう。
偉人棚には
1.
勝海舟先生の檜皮篭(伊東重氏所蔵) 枢密顧問官 税所篤氏の証明あり
2.
西郷南州先生手製烏賊釣具(伊東重氏所蔵)大島島庁書記 小倉治平氏の証明あり
3.
西郷南州先生の字指(ジサシ 笹森儀助氏所蔵)大島島司 笹森儀助氏宛の証明あり
4.
福澤諭吉先生自筆の原稿(対馬定紀氏所蔵)時事新報社説の原稿
5.
丁汝昌の菓子入(菊池九郎氏所蔵) 清の北洋艦隊提督、日清戦争、自殺の枕元にあったもの、
6.
津軽信政公の御椀(成田彦太郎氏所蔵)間宮家の拝領したもの
7.
乃木大将愛用の碁石(一戸大将寄贈)旅順包囲軍の際に使用したもの
8.
山県元帥揮毫の額(工藤十三雄氏寄贈)松陰先生記念会のために揮毫してもの
9.
山県元帥の軍服(工藤十三雄氏寄贈)日清戦争の陣中に着用したもの
10.寺内元帥(先代)の毛筆及び鉛筆(工藤十三雄氏寄贈)臨終まで使用したもの
11.児玉大将の状箱(工藤十三雄氏寄贈)
12.東郷元帥揮毫の書(蒲田静三氏寄贈)「神清智明」壬子春 東郷書花押あり
13.後藤新平先生揮毫の掛物二軸 特に養生会員のために揮毫された「神心獣体」と其の説明の二軸
さらにその後の寄贈品として
14。明治天皇御崩御の際の御床の一部(満川亀太郎氏寄贈)
15。(昭和)天皇陛下御愛用の硯(今あや氏寄贈) 珍田侍従長に親しく下されたもの
16。(昭和)天皇陛下、秩父宮、高松宮御幼時の帽子制服(皇子伝育官であった弥富破摩雄氏寄贈)
寄贈者について、少し説明を加えると、工藤十三雄(1880-1950)は政治家で18年間、弘前を地盤として衆議院議員として活躍した。対馬定紀(1845-1919)は弘前の実業家で第五十九銀行頭取、成田彦太郎(1867-1952)は新聞記者で弘前新聞社長、蒲田静三(1887-1966)は海軍大佐、第一次世界大戦では地中海方面に出撃、今あやは作家、今東光の母親である。また弥富破摩雄は学習院初等科時代に天皇の伝育係となり、その後、大正12年に旧制弘前高校が開設されると国語教授として赴任した。
西郷隆盛の遺品については、やや由来は不確かであるが、その他の品については、寄贈者名から本物と思われ、貴重なお宝である。こうした遺品を博物館などで展示するのもいいかもしれないが、創立の趣旨を考えると、その由来と人物像を子ども達に語り継ぐことが重要と思われ、単なる見せ物の終わるべきではない。一方、やや残念なことは、地元の偉人の遺品として、ここに挙げた品以外に“本多庸一の説教原稿”、“陸羯南の書”、“伊東梅軒の書”などがあるが、もう少しあってもよさそうである。珍田捨巳、一戸兵衛、菊池九郎、本多庸一、笹森儀助などは、伊東重とも関係が深く、そのゆかりの品を寄贈してもらうのは容易だったと思うが、おそらくこうした人物は自分を偉人棚に飾られるような人物ではないと遠慮したのであろう。郷土教育が学校でも義務化されるようだが、そうした中で松蔭室ならびに偉人棚が活用されれば、よかろう。
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