前列左二人目が鈴木雅(加藤まさ)とヴェッチ
本日は、休診日で、午前中は弘前学院の創立130周年記念講演会があり、横浜の岡部先生の「本多庸一と長谷川誠三」という講演を聞いた。大変な内容の濃い45分間であった。帰宅後、これも縁かと思い、横浜共立学園からいただいた創立140周年記念ビデオのDVDを見た。伝統ある学校で、生徒は皆、しっかりしており、さすがにキリスト教精神に基づく伝統校だと思った。
この学校の不思議な点は、初期の学生の中に多くの海外留学生がいたことが挙げられる。前回のブログでも紹介したが、「横浜共立学園六十年史」の中で、卒業生の寄稿文のひとつに小島清子(北川)さんの「思い出を語る」という文が収められている。少し引用すると
「私は姉の北川晴子と弟の北川才太と三人で、ミッションホームが山手四十八番に開設された最初の生徒として入学したものでした。私たちの外に第一回の生徒として入学した人たちには福澤先生のお嬢さ達が三人、又福澤先生のお姪御さんで福澤おきよさん、井上馨(後の侯爵)さんのお嬢さんが二人、木脇お園さん。この人のことを伯爵夫人と渾名していました。中尾さん、名は何と言ったか覚えていませんが何でも芸者をしていたかということでした。苗字は忘れましたがお米さんという三十歳位の人もいました。菱川お安さん、この人は後医者となった。更木お梅さん、更木お金さん、おひささんなどでした。間もなく二百十二番に移りましたが、移ってから入学した者のうちには毛色の変わった人たちがいました。 略 おりょうさん(後栗岡氏に嫁す)、加藤おまきさん(後東京帝大の看護婦長となった)桜井おちかさん(桜井女塾を開いた)井深おせき(井深梶之助博士夫人)おとりさん、お角さん(後医者になった)お貞さん、おりやうさんなどであった。この二人は明治の初年最初の女子海外留学生として米国に往った上田てい子、吉松(益)りょう子さんたちで渡米後間もなく帰朝して共立に入ったのでした。これらは開校当時の事で明治四、五年頃の話ですが、それでも当時の社会においては相当の身分のある人たちの子供が入学したのです。」
前のブログにも書いたが、一期生にはほかにはペンシルベニア女子医学校に進学して女医になった西田ケイ(岡見京)がいる。つまり一期あるいは二期生の中にシカゴ女子医大に進学した菱川ヤスとシンシナティー女子医学校に進学した須藤カクと何期かは不明であるが阿部ハナの四人の外国の女子医学校を卒業して女医になった生徒がいる。驚くべきことである。今でも日本の高校を卒業してアメリカの医学部へ進学する生徒がどれほどいるかと考えれば、これは凄い。さらに気になる人物として“加藤おまきさん(後東京帝大の看護婦長となった)”がいる。検索すると、旧姓、鈴木雅(1857-1940)、日本の看護師の草創期に活躍した人物である。彼女は、同期生の桜井ちかの開設した桜井女学校で、イギリス出身のナイチンゲール看護学校を卒業したアグネス・ヴェッチ(Agnes Vetch)の通訳をしていた。その縁もあり、最初の桜井女学校看護婦養成所の第一回卒業生として大関和、桜井とともに東京帝国大学に勤務し(明治21年)、その後、内科婦長となった。ここで看護師の教育を行ったが、当時の男性主体の病院に耐えられなくなったのか、2年で辞めている。その後、鈴木雅は明治24年には慈善看護婦会(東京看護婦会)、看護婦講習所などを創立した。
とここまで加藤まさについてコンピューターで検索した。桜井ちか、加藤まさ(鈴木)、岡見京、須藤カク、阿部ハナ、菱川ヤス、さらには二宮ワカなど同窓同士の関係はおもしろいし、さらに気になるのは芸者さんで共立に入学した中尾という人物だが、これはわからない。岩倉使節団で渡米した五人の少女の中の二人、上田悌子と吉益亮子が同級生にいて、学校生活を共にしたのは同級生にとって海外を身近に感じたのだろうし、医療分野に進む生徒が多いのは宣教医師のケルシー女史の存在も大きいように思える。
追加:静岡県士族加藤信盛の長女として生まれた。横浜のフェリス・セミーに学んだ。夫は西南の役に大隊長として活躍した鈴木良光陸軍歩兵少佐であったが、仙台の陸軍病院で病死した。夫の死後、桜井女学校附属看護婦養成所に入学、卒業後は東京帝国大学医学部附属医科大学第一医院の内科婦長として勤務した。 (看護歴史探訪 ーその3 小児精神医療のパイオニア 、佐々木秀美)
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2 件のコメント:
ご指摘ありがとうございます。該当部分を削除いたしました。
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