昨夜、横浜の岡部一輿先生とお会いした。先生は長年、横浜を中心とする明治期のキリスト教史の研究をされている。現在、横浜共立学園150周年記念誌の執筆などでお忙しいようで、今回、弘前に来られたのは、弘前学院の130周年事業の一環として、藤崎の実業家で、弘前学院の創立に尽力した「長谷川誠三」についての講演のためである。また長谷川の子孫から長谷川誠三の評伝を頼まれており、その資料探しも兼ねている。
私は主として弘前の人物を中心に調べているが、長谷川誠三については、ほとんど知らなかった。ここでは岡部先生の論文「事業家 長谷川誠三」(横浜プロテスタント史研究会報、No55, 2014)に沿って、長谷川のことを少し紹介したい。どうも長谷川は弘前、あるいは津軽の主流からは外されていたため、それほど知られてこなかったかもしれない。津軽は、評伝、人物史を扱った本が多くあるが、これまで長谷川誠三についてまとめたものはない。例えば、東奥日報社、「青森20世紀の群像」(2000)でも、わすかに「長谷川誠三(1857-1924) 日本初の石油会社創立に投資、秋田県黒川油脈の試掘に成功し日本石油の専務となった。故郷への貢献も大きく、特にキリスト教の洗礼を受けた後、教育関係を中心に多額の寄付を行った。藤崎銀行創立など事業も広く手掛け、1912(大正11)年の藤崎の税金の半分は長谷川家のものだった」と記述されているだけである。また東奥義塾の再興に関して長谷川は一万円を寄贈したが、それに対する記述も、「此難局を切抜くる為に山鹿元次郎等は長谷川誠三を訪れ金一萬円を工業学校建設費中に寄付することを求めたが、承諾したので遂に金十萬円を弘前市に於いて一先づ取纏め、之を縣に寄付する事になり、此の県立工業学校移出の問題は解決することとなった」(東奥義塾再興十年史、昭和6年)と、再興の恩人に対して冷たい。
この理由としては、明治期の津軽では士族、東奥義塾出身者が幅をきかせており、藤崎の農家(大地主)出身の長谷川はどちらにも該当していないこと、さらに津軽キリスト教徒として主体であるメソジスト派からプレマス派という一小教派に転じたことも関係している。本多庸一らの説得も関わらず、断固として転派することで、弘前教会との関係もまずくなったと想像できる。そのため、東奥義塾あるいは創立に尽力した弘前女学校においても、「弘前女学校の設立者の名前は本多庸一となり、長谷川誠三の名前は削除された」(岡部論文)であり、東奥義塾の理事、関係者にも「再興十年史」では寄付者に載るだけで一切、役職はない。
それでも「津軽を拓いた人々 津軽の近代化とキリスト教」(相澤文蔵、2003)では長谷川誠三の業績について比較的詳しく記述されており、長谷川の転派についても相澤は同情的な理解を示しているのは何よりである。津軽では、武士は食わねど高楊枝の言葉通り、実業家で、己の才覚で財産を築いた人物に対する評価は厳しい。長谷川のように金をもうけ、寄付などを通じて社会に還元するという欧米的な奉仕活動は、津軽では理解しにくく、金持ちに対する嫉妬、あるいは偽善的と見なされたふしがある。金があるなら、協力して当たり前、なぜ協力しないのかといったタカリ精神はあったのだろう。決して実業家がそのまま、尊敬されない風土があり、そうした風土が未だに津軽出身の起業家の少ない理由でもある。また同名で長谷川英治(1869-1936)という人物がいて、上北郡雲雀牧場を経営に従事し、乃木希典大将とも知己であった。一方、誠三の経営していた雲雀牧場では日露戦争で有名なステッセル将軍から送られた白馬を飼育していたという縁で、乃木大将とも懇意で、乃木が殉死する際の辞世の歌が前もって送られたという(青森県人名大辞典、昭和44年)。英治と誠三の関係はわからないが、親類あるいは兄弟か(誠三の弟、定次郎は棟方家に養子となった。また父は定七郎、もともとは高木姓で、木造町弧槌の長谷川の名義で酒屋をしていたので改名した)。両長谷川と乃木との接点は、おそらく一戸大将のが関係したのだろう。
こうした風土の中で、どうして藤崎という郡部から長谷川誠三のような実業家が生まれたのか、あるいは社会貢献という近代的な思想に達したか興味が持たれる。岡部先生のますますの研究と評伝の発刊が待ち遠しく、これを機に再評価されることが望まれる。13日には弘前学院で記念講演をするとのことであるので、興味のある方は行かれたらどうだろうか。
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