昭和20年代の脇町 |
脇町本通の山車 |
徳島で開催された第75回日本矯正歯科学会大会に参加してきました。昨年の福岡の学会では専門医更新試験で記載不備のため3症例とも保留ということになり、再度、今回の学会では指摘部分を訂正して持って行きました。11月7日の朝9時に会場に搬入するため、前日の11月6日(日曜日)に飛行機で徳島市に入りました。その日は、徳島駅前のホテルで宿泊。翌日は、会場に資料を運び、あとはすることがないため、母の実家である脇町に行ってきました。脇町に行くのは前回、徳島で学会があった時ですから、25年ぶりとなります。穴吹駅は昔のまま、駅の前には“ぶどう饅頭”の店。実家はもとともは脇町の中央橋近くにありましたが、今は吉野川沿いの商業地区に移転し、懐かしい親類から歓待されました。脇町は“うだつ”の町として有名で、昔の商家の美しい町並みが保存されています。子供のころ、休みの度に帰省していましたが、当時(50年前)は薄暗い通りでしたが、きれいな町並みに生まれ変わっていました。ところが本通は全くにぎわいもなく、川沿いの柳の数本あるだけで、淋しい気がしました。できたら川沿いの柳も復活してほしいいところです。
1時間ほど見学した後、穴吹駅から徳島駅まで鉄道で移動し、そこからタクシーで鳴門のホテルリッジというところに行きました。このホテルは地元民にもあまり知られていないところで、大塚グループが至高のホテルとして作ったもので10室の客室がすべてコテージになっており、夕食、朝食は離れにある二つのすばらしい和風邸宅で食べることになっており、そこまではリムジンで送迎してくれます。部屋の風呂も立派なものですが、敷地内にあるスパもほぼ一人で独占でき、最高の贅沢でした。ただ枕が合わないため熟睡できませでしたが。次の日、11月8日は合否発表にため、私だけ朝早くタクシーで徳島市内の学会場に行きました。無事に合格し、何とか今後5年間は専門医の資格を挙げることができます。
徳島市はあまり見るところがなく、その日は、合格発表を確認後は、バスで三宮に行き、尼崎の実家に泊まりました。次の日の11月9日(水曜日)は朝早くから、三宮から再び、徳島までバスで行き、前から気になっていた親父の軍歴記録をもらいに徳島県庁に行きました。こうした記録は家にもなく、昭和16年から帰国した昭和23年までの親父の軍歴がすべてわかり感動しました。徳島出身者の多くはビルマに派遣され、インパール作戦で亡くなった人も多くいます。それに対して親父は、母子家庭の長男で歯科医(学徒出陣)であったためか、ソ連国境の陸地測量隊にいたようです。幹部候補生で少尉になったのが昭和18年で、予備役、再召集され、終戦時は“根こそぎ召集部隊 第148師団”の司令部付(参謀部付き)にいたようで、階級はそのままでポツダム階級で中尉になっています。将校は、新京収容所を経て、マルシャンスクというモスクワの南方にある捕虜収容所に連れて来られました。ここは過酷なシベリア抑留に比べれば気候ではまだマシなところだったようです。この捕虜収容所はドイツ人、ハンガリー人などヨーロッパ戦線の捕虜もいたようで、ここで最初は木大伐採などをした後、医務室で歯科医として働いていたようです。昭和23年5月10日に収容所を出発して、6月英彦丸にて敦賀に帰国しています。
県庁で軍歴をもらった後、徳島県立近代美術館にお袋が70年前にモデルとなった絵があると知り(河野太郎、“井川悦子像”)、訪れることにしました。市内から結構離れており、徳島ではタクシーばかり使っています。残念なことに会期中に何度が絵を替えるためにその日の会場には絵は飾られていませんでした(徳島のコレクション 2016年度第2期)。でも子供としては親をモデルとした絵が美術館にあるのはうれしいことです。美術館から会場までタクシーで移動し、少し講演を聞いた後に、撤去時間の4時前に資料を回収して、再び、タクシーで徳島駅へ、そこからバスで三宮、尼崎、そして11月10日(木曜日)に尼崎から弘前に帰りました。日曜日から木曜日までの出張で、ずいぶん疲れましたが、色々な収穫がありました。
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