弘前偕行社 |
二軒の洋風家屋 |
弘前には日本陸軍将校の社交場である偕行社がある。昔、弘前ロータリークラブで、ここを利用したことがあるが、戦前の姿がそのままが残っており、懇親会の最中、人々の懇談しているざわめきが、そのまま陸軍士官のそれと重なり、まるでタイムスリップしたような不思議な経験をした。
現在、弘前偕行社は建物が痛んでいるため、大規模な修復作業が行われている。どの程度、進んでいるか、先日、散歩がてらに見てきたが、建物全体をカバーで包まれ、はっきりしない。この建物は明治40年(1907)11月に第八師団のために堀江組によって建てられたもので、明治41年には皇太子嘉仁親王(大正天皇)も宿泊した。現在、行われている修復は平成29年9月、完成予定であり、完成の暁には多くの弘前市民にも活用できる施設になろう。
この建物のすぐ近くに以前から気になっていた建物がある。北海道の開拓地にあるようなこぢんまりした洋館で、平屋に二つの三角屋根があるもので、少なくとも戦後の建物ではない。人の家をじろじろ見るのは住んでいる人には迷惑だと思い、遠慮していたが、今回、思い切って一方通行になっている細い道を進んで見てきた。二カ所の半切妻造の屋根を持ち、外壁は焦げ茶の板張りとモルタル塗りで、屋根はトタン張りである。玄関は小さいながら、両端に白い柱があり、丸いレトロな電球がある。雰囲気としては、最近スターバックコーヒー店として公開されている旧第八師団長官舎に近い。建坪は20坪くらいで、この建物の奥にあるものは同様な構造で建つ坪はもっと大きい。建築された時代は、専門家ではないのではっきりしないが、おそらく大正から昭和初期のものではないだろうか。三角形の屋根にある小さな窓は上下開けのもので、西洋風である。
現在、弘前大学のある場所に第八師団があったため、周辺の御幸町、富田町には多くの軍人の住む住宅があった。今でも当時の姿を残す建物が少なくないが、木造の和風平屋で、上記のような西洋風の建物はない。一軒であれば、戦前、こうした西洋風の建物が好きで、建てた可能性もあるが、同様な建物が近くにあることから、この二つの建物は官舎、それも位の高い士官の官舎であったと思われる。
弘前にはこうした建物以外にも古いものがたくさんあるが、何時の間にかなくなってしまうことが多い。最近の気密性の高い建物は寒さに厳しいあおもりでは大変ありがたく、逆に古い家に住み続けるのは難しく、壊されていく。こうした流れは当然のことであるが、壊す前にできれば文化財保存技術協会などの調査と評価を受けてほしいものであり、重要な建物については保存、移築などをしてほしい。壊すのは簡単であるが、一度壊すと二度と再現できないだけに、慎重に対処してほしい。知人の歯科医の方が、数十年前のことであるは、武蔵楼の豪華な玄関部を含む一部建物の保存を市に頼んだところ、遊郭なんど保存できるかとけんもほろろの対応をされたと怒っていた。こうした市の対応はいたるところにあり、歌手の森山直太朗が弘前城内で「さくら」を歌いたいと市に申し出たところ、これもたかが歌手ごときに城を使わせられないと言ったという。かまやつひろしの父、ディープ・釜萢は弘前藩の釜萢家に繋がることと考えると、従甥の森山直太朗も弘前と関係はある。数年前、台北駐日文化経済代表処(台湾の大使館にあたる)と関係のある知人から、弘前の観光パンフレットとビデオがほしいという依頼を受けた。市の観光課にいくと若い職員が丁寧に対応してくれ、資料をいただいたが、課長は奥のデスクに座り、その経緯を眺めていただけであった。後日、市長が代表処に表敬訪問し、代表と懇談したが、その折の資料には若い職員の名刺があったのは、ざまあみろといところか。最後は、ぐち話になってしまった。
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