高くて、本屋で買うかどうか、かなり迷ったが、買ってしまった。「150年前の幕末・明治初期日本」。明治初期に来日した二人のオーストリア写真家、ブルーガーとモーザーのガラス原板の写真を高精密画像で紹介した写真集である。こうした明治初期の外国人が写した写真集はこれまでにもあったが、この写真集ではそれをデジタル撮影して高倍率に拡大して周辺に写っている人物、風景を紹介している。普通なら5000円以上する書物は専門書以外買わないが、その前に渡辺京二著「逝きし世の面影」を読んだだけに、当時の日本を読むだけでなく、実感するのは写真が必要だと思った。同書には多くの外国人が幕末、明治初期の日本を清潔できれいだと感嘆しているが、「150年前の」にある写真を見てみても、農家、商家、町家とも家の前はきれいに掃除され、写っている人々は武士、農民、商人ともこざっぱりとしていて、確かに清潔である。当時、写真を撮るには数秒以上の露出が必要だったので、写真に写る人々は前もって動かないように指示されたであろうが(知らない人は動いたので亡霊のように写っている)、周りの風景ごとわざわざきれいにしたとは思えない。道をよくみると小さい黒点がところどころあり、馬糞であろう。
「日本人は貧乏人はいるが、貧困は存在しない」とチェンバレンは言ったが、江戸時代にもスラムあるいは貧乏人の住む長屋はあったろう。ただ粗末な家、衣装ではあったが、汚いわけでないし、臭いわけでもなかったのだろう。「150年前 」写真集には、幕末の横浜の中村川から南一ツ目沼あたりの風景写真が載っている。川沿いには農家が写っているが、どの家のきれいに掃除がされ、屋根の藁葺きも整っている。対岸の菓子屋、団子屋、荒物屋などの写真もあるが、これも道には馬糞があるもののきれいに掃除され、きちんとされている。どの家も決して裕福な家ではなく、むしろ貧しいといってもいい家なのだろう。それでも写真を見る限り、決して貧困とは思えないし、むしろ美しい風景と思える。ところがこの数年後、南一ツ目沼が埋め立てられ、簡易宿泊所が多く建てられ、横浜でも有数のスラム街となる。小さな部屋の多数の人が寝起きし、不潔な環境で、病気が蔓延した。貧困の誕生である。おそらく西洋型のスラム街が発生するのは明治になってからだと思われる。江戸時代にも貧乏人が多く住む地域があり、学者によれがスラム街とされているが、ごみ、糞尿が捨てられ、不潔で、生活の乱れた近代型のスラムとは異なり、秩序だった、整頓された区域だったのだろう。
さらに「150年前の」の写真集に載っている人物の着物姿が現代人とはかなり違った印象を受ける。まず女の人の着物の打ち合わせがものすごく緩い。襦袢がかなり見え、着物を打ち合わせの位置が低く、さらに帯の位置も低いし、着丈も短い。かなりゆったりと着物を着ていて、動きやすそうである。生活の根ざした着物である。もちろん屈んだりすると乳房が見えるかもしれないが、そんなことはおかまいなしといった感じである。着物自体も古着なのであろう、かなりくたびれた感じであるが、かえって動きやすそうである。庶民の着物姿は、肖像写真に残されたものより、こうした風景画の中に写る人物の方がより実際に近いのは、今でも写真館で写真を撮る場合は普段と違っておしゃれするのと同じである。
江戸時代は、今でいうリサイクル社会であり、着物は何度も古着として使われ、さらにおむつ、雑巾などに使われてから燃やされる。糞尿は近辺の農家の者が買いにきたし、「150年前の」写真集にも写っている路上の馬糞も馬糞拾いという商売があり、それを集めて農家に売った。このことは馬糞売りという特殊な商売で生活が成り立ったことを意味するし、さらに競争が激しいと共倒れするため、専業だったのだろう。江戸時代は厳格に職業と数が決まっており、常に供給過多にならないように株がないと仕事ができないようにした。さらに江戸時代は盲人は座頭という団体に所属し、鍼灸、按摩などは専売となったし、金貸しなども許された。逆に健常者は鍼灸、按摩は基本的には職業に出来ない風潮であり、過当競争の弊害を防いだ。
2 件のコメント:
お久しぶりです。先ほど先生の書評で衝動買いしました(笑)。私は会津なので明治維新のとらえ方が違うのです。ですからこの見え方も違って見えそうで楽しみなのです。
写真の威力はすごいですね。江戸の雰囲気を知るには、文や絵より、写真です。
億単位の解像度は、ある意味、悪魔の俯瞰というか、こわい感じがします。
4000万画素くらいでも、ポートレートの女の人の皺どころか、瞳に写る撮影者がわかるほどです。
こうした試みは面白いと思います。
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